動物が身近に居るとその感覚の鋭さに驚かされることがある。
たとえば犬と散歩をしていると、その途中でよく周囲の飼い犬からいきなり吠え掛けられる。
大抵はそれが相手の視野に入ってからであるが、ときには家の中から吠えられていることもある。ずいぶんと手前から気付かれて吠えられている時もある。
明らかにこちらの気配を察知していて犬が敏感に反応しているのだ。このとき相手の犬は一体何に対して反応しているのだろうか?
こちらの歩く足音がそれほど相手の犬の耳に感知されやすいのだろうか?
もしかしたら犬の鼻には並外れた嗅覚と同時に、さらに別の高感度センサーが備わっているのではないか。どうみても視覚や嗅覚だけで周囲の気配を感知しているのではないようだ。
犬や猫といった動物はその全身が体毛に覆われていて、体毛やヒゲが高感度のセンサーになっているのは間違いないであろう。
猫は顔の周りの長いヒゲが、暗闇では敏感なセンサーの働きをすることはよく知られていることである。そうした動物の鼻の臭覚も敏感であって、散歩中の犬は人間とは違って膨大な臭いの空間世界をダイレクトに感じ取っているというか、まるで臭いの大海を嗅ぎまわって歩いているようなものだろう。
犬は降りかかっくる大気の香りの中を掻き分けて歩いているというようにも感じられているのであれば、散歩中の犬は人間とは全く違った空間認識の感覚そのものを楽しく感じながらそれを体感として享受しているはずである。だからこそ、犬は格別に散歩が好きなのだと思う。
しかも動物は人間のように衣服を着ることはないわけで、その代わりに全身が体毛という超感度センサーにくるまれていることになる。
私は体毛が濃い方なのでこの動物的感覚が何となく分かる。
涼しげな微風があるときなど、体の露出した部分の体毛が微妙に震える感覚が無性に心地よく感じられるときがある。これは頭髪とはまったく違った感覚である。まわりのそうした僅かな大気の流れがそれとなく分かる感覚である。
夏場には蚊が皮膚面に止まる瞬間が体毛センサーで素早く感知できるので、その一瞬のもわもわとした皮膚感覚と同時に素早く蚊を叩けるのだ。
もっとスケールの大きな事例を挙げるならば、火山の噴火現象や地下の地震エネルギーが蓄積されてくる際などに異常な電磁波が放出されてくるという話題の方がここでは理解され易いであろう。
地震を引き起こす地下の電磁波エネルギーが地表上空の大気に影響していわゆる地震雲などが見られるようになるのだが、地中から放出されるこうした電磁波自体は意外なところで観察されているのだという。
一般には知られてはいないが、地下核実験を検出する軍事用偵察衛星に搭載された高感度電磁波センサーでも地上の電磁波異状は細大漏らさず補足される。
1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災の際にも、米国の偵察衛星によって大地震は発生と同時に異常な電磁波は捉えられていた。地震と電磁波とは面白い組み合わせである。
この種の波動エネルギーは人間には感知出来なくとも、昔からナマズや小動物は事前に反応して異常な行動をみせるともいう。
たとえば2018年(平成30年)6月18日に起きた大阪北部地震の際に記録されていた和歌山県内の猫カフェ内の監視カメラが、余震前と地震発生時の猫の姿を捉えていたことでネット上でも話題になった。(大阪北部震度6弱・和歌山震度3)
このときの猫が走り回わる様子は尋常ではない。見る限りたしかに、猫たちは地震発生直前に何かに反応して走り出しているとしかみえない。
猫カフェキャッチー 地震
人の体には準静電界というものがあることが知られている。
ここでいきなり準静電界といっても理解されないであろうと思う。第一ここで準静電界があるといっても普通の生活を送っている限り、これを意識したり感じたりすることはないからである。
ただし武道の世界ではこの準静電界がすこぶるものを言う。武道というものは準静電界そのものの世界である。
にわかには信じられないであろうが鍛練を積んだ本物の武道の達人は、背後からいきなり斬り掛かれても素早く体をかわすことが出来る。突然の攻撃に対してまるで背中にも目があるような素早い体さばきをみせる。戦国に活躍した忍者は、そうした気配や殺気を相手に気付かれないように、己の発する準静電界を自在にコントロールする技を習得していた。
修練を積んだ武道家は相手の発する気に反応していると思われる。それが気配といわれるものであるが、武道家はとっさにそうした相手の気の動きや気配を敏感に感知できる感覚を研ぎ澄ましている。
とはいえ現代科学をしてもこの超感覚ともいうべき準静電界レベルの身体機能は、これまで十分には解明されてはいなかった。
最近はこうした古武道の流れをくむ忍術に魅せられて、修行のために来日する外国人が多いというが、欧米人もこうした古代の武道の未知の領域に強く惹かれるらしい。彼らは殺気が感じられるまで道場で真剣に修練を積む。
こうなるとやはり人体そのものにも準静電界レベルでの敏感なセンサー機能が備わっていると云うことが次第に理解されてくる。こうした武道家の敏感な超感覚の世界そのものは驚きである。けっして作り事ではない。
武道家のそうした見事な技を目の前で実際に見せられてしまうともはや否定しようがない。
Masaaki Hatsumi - sakki jutsu
獲物に近付く肉食猛獣もそうした動きを本能的に身に付けているわけで、体毛で覆われている動物というのはこの感覚がより強く働いているといえる。
これは非科学的なことではなくて、動物でなくともいわゆる生体には微弱な生体電流というものが流れていて、体表面周囲にも物理的な準静電界が作られているのだという。いわゆるオーラといわれるものである。
体を取り巻く様にそうした準静電界が広がっているから、そこにはある種のセンサー的感覚が伴うのかも知れない。周囲の気配とは、そういうものからダイレクトに感知されているということになる。
どうやら鳥などは地磁気が視覚的に感知出来ているらしい。つまり人間には見えないレベルの物理的波動が見えているのである。
現在世界最高水準の顔認証技術と電磁波センサー技術を持つ中国では、すでにこの準静電界レベルの変動をも補足する機器を完成していて、離れた位置から特定の人物だけを的確に選別できるシステムがあるという。
科学の分野でもこうした準静電界レベルの事象に新しい展開が出てきているのだが、もともと動物の生態研究が手掛かりとなったことは確かである。渡り鳥などはそうした感覚があるから正確に遠距離を飛翔していても、迷わずに目的の土地まで到達出来るということになる。
これも準静電界の範疇に入るのではないか。
たしかにこの準静電界の微妙な変化を捉えて、武道の達人は相手の気配を察知するということになる。
軍事関係では敵の所在を赤外線センサーや暗視カメラで探索する方法が採られているが、ついにこの人体の準静電界レベルでの精査が現実に可能になってきている。
米国の国防省では準静電界レベルのセンサー技術を使って200メート先の人の心拍を補足することにすでに成功したとしている。
準静電界レベルでいう気配の実態は何であるかと云えば、相手の心臓が発する鼓動(心拍)ということになる。人の心臓の拍動に伴って活動電流が発生するが、その微弱な電磁波を準静電界レベルでそうしたハイテクセンサーは武道家同様に敏感に補足していることになる。
実は武道家ではなくとも、この準静電界の微妙な変化を敏感に感知する人たちがいる。その感覚が特異なものだけに、一般には気のせいだとか単なる錯覚と端から決め付けてしまう場合が多いのだ。だが実際にそのような人が何人もいるということが判ってくるとあらためてこの準静電界について注目せずにはおられなくなる。
それが電磁波過敏症の人たちである。
電磁波過敏症とされる人は、明らかに自分を取り巻く準静電界が不用意に干渉されゆがめられてしまうことに強い不快感を体感している。しかもその違和感は自覚症状であるだけに他者にはわかりにくい。ぞわぞわするといった皮膚感覚のレベルから、身体の痛みや症状には個人差がある。
この状態が継続すると次第に体調までが悪くなってくる。しかも原因が特定されないということもあって、薬物も効果が無い。過敏症も軽度の場合は見過ごされがちだが、深刻度が増すとより異常な感覚が襲ってくる。
それが特定の方向から、それも決まった時間帯にビリビリする異常な感覚が執拗に襲ってくるようになると「誰かに攻撃されている」という恐怖感が出てくる。最初は気のせいではないか、何かの錯覚ではないかと思うのであるが次第に睡眠障害や身体の異状が現れ出すといよいよ不安になってくる。周りに相談しても誰もそうした状況を理解してくれないとなると気分までが落ち込んでくる。
電磁波障害や準静電界といっても目には捉えられない現象であるから個人レベルで証拠立てることはまず不可能である。しかしながら軍事医科学分野のテクノロジーにはそうした特殊機器がすでに欧米諸国や中国で開発されているのも事実である。電磁波を使って群衆を制圧できる装置である。当然ながらそれらに類似したものが持ち出され悪用されている可能性は否定できない。
国外から持ち込まれたとしてもにわかには取り締まりなどはされない現状では、電磁波過敏症が公に認知されない以上規制の対象にはなりえない。そうした被害にあったら不運として諦めるしかない。
しかしながら現実にはおぞましい電磁波過敏症を訴える人は少なからず存在するわけだし、さらには執拗なマイクロ波攻撃に晒されている人も実際に存在するわけで、それがただの錯覚であるのなら本当にすべてが一時の錯覚であって欲しいといえるであろう。しかしながら、実際にはそうした事例も一人や二人ではなくて、同様のパターンで共通する苦痛を次々と訴えてこられるのである。
準静電界に関する関連論文紹介
人間の「第六感」 磁気を感じる能力発見 東大など 産経デジタル 2019/03/19
https://www.sankei.com/life/news/190319/lif1903190018-n1.html
「犬は主人を電解で見分ける?-歩行による人体の電解発生とその伝搬
犬等のペットが嗅覚とは考えられない状況下でも遠くから主人の帰宅を感知する現象が経験的に知られている。しかし犬は低周波音に対する感度が人間よりも低く、また足音自体の情報量も個人識別するには不十分で音以外の原因が推測された。歩行は別な側面から見れば、異なる物質同士が強い圧力で接触、加圧され剥離する現象である。本研究では歩行時に人体を中心に準静電界(quasi-electrostatic field)が形成され周囲で遠隔計測できることが見出された。また、左右の足のゆらぎを排除するため片足の電位の分離計測法を開発し、これにより歩行時に人体から発生する準静電界が個人固有の歩行運動の微細な特徴を正確に反映することを見出した。」
https://ci.nii.ac.jp/naid/110001095166/
日常の生活環境下で心臓磁場を簡単に検出するセンサーを技術
2021/1/12
動物の第六感「磁覚」の謎に迫る。磁場に反応する細胞の観察に成功(日本研究)
2021/1月12日
200m離れた人の心拍で生体認証する技術、米国防総省が開発中
2019/7/1
https://japan.cnet.com/article/35139246/
これも準静電界なの?
準静電界がゆがめられるとどうなるのか?
痛みの治療をやっていると時たま不思議な症状を訴える方が訪れることがある。
ある日、とても不思議な方がみえた。
その方もあちこち医療機関で治療を受けられていたのであるが、まったく症状が改善しないままだと言われる。
その方は身体障害者であって、両足が不自由であるので付き添いの介護者と一緒に車椅子で来院されたのであった。
症状を詳しく伺うと、やはり通常の痛みの症状とは随分と変わっていると言わざるを得なかった。
不自由な両足がびりびりと電気が走る様な感じで、常に強い痛みがあるといわれる。
しかもここ何日かは、持続的な痛みがあって睡眠も思うように摂れない状態だといわれる。
十数年前、高所からの墜落事故で骨盤や腰椎、下腿骨を骨折損傷されたということで起立歩行が出来ないとのことであった。
腰部には、事故時に手術処置した時の金属性の固定具がいまだに入っているともいわれる。
今回の検査では、そうした固定部分にも何ら異常はなかったということであった。
結局のところ、今回の痛みの原因がはっきりせずに本人は憔悴した表情であった。
このようなケースは決して珍しくはないのだが、そうかといってこうした症状の痛みに頻繁に遭遇するというわけでもない。
「先生、この痛みをどうにかしてください」といきなりいわれても、これは大変である。
「このような痛みが出る前に、何か無理な作業とかされませんでしたか?」
車椅子での生活だけに活発に体動き回ることはないと思われるが、どこかに本人も気づかれていない生活上の動きの中に原因になるものがあるはずである。
「特別無理なことはしていませんが、先日ある会合に出たことがあります」
「会合ですか?」
「ええ、ある宗教団体の例会みたいなのに誘われたのですが、そのとき少しおかしなことがありました」
「おかしなことといいますと?」
「ええ、その会合にどこかの牧師さんが来賓で来ていて説教というか、話しながら時々ピアノをババーンと鳴らすんですが、どうしたことか、そのピアノの鍵盤が叩かれる度にその音が私の足全体に響いてとてもビリビリしました」
「いつもそのような感じがあるのですか?」
「いえ、そのときが始めてでした」
「いわゆる一種の宗教的なイニシエーションを受けられたわけですね」
「そうだと思います」
「それ以降何かいままでとは違った変化が足にありませんでしたか?」
そう尋ねると意外な答えが返ってきた。
「あります。それ以降なんですが、自宅近くにある祈祷所の前を車で通るとそのとき何故だか足に電気が走るみたいにビリビリします」
「そのビリビリというのは、イニシエーションのとき感じたものと同じような感覚ですか?」
「同じです」
「祈祷所以外でもその感覚が感じられるときはありますか?」
「○○町の通りとか、国道○○号線の○○の前を通過するとき必ず足がビリビリします」
「でしたら、市内の○○町の○○辺りとか、○○町の○○隣の○○場はどうですか?」
「えっ、先生分かりますか?そこもいつも感じます。先生、私の足がその場所でビリビリするって何故分かるんですか?」
ここまで話してくると、いよいよ本人は不思議そうな顔をされる。
「○○県との県境の道路を車で通ると必ず足がビリビリしますが、それなんかもみな同じ原因ですか?」と、聞いてこられる。
「通常の感覚でいうと、視覚では捉えられないものに影響されているということです」
「車の中で目をつぶっていてもその場所に来ると足がびりびりするから、いまその場所を通過しているのだということが自分には分かります。これは何かの祟りですか?」
「祟りなんかじゃありませんよ。その場の環境波動とでもいったらいいか、地場、土地がもっている一種の電磁波ですね」
「電磁波ですか?」
「その場の雰囲気という表現がありますよね。明るい雰囲気、暗い雰囲気、楽しげな雰囲気、険悪な雰囲気とか。こうした雰囲気というのは言葉の上だけでなくて、実際にその場所の波動がそれぞれ微妙に違っています。人間には通常意識されてはいないのですが、そうした変化を敏感に感じ取るセンサーが無意識に働く場合があるわけです」
「私の足がそのセンサーというわけですか?」
「そうですね、周囲の波動環境に敏感に反応しているということになりますね。その場の殺気を足が感じ取っているのかもしれない。おそらくきっかけは最初のイニシエーションを受けられたときに、その波動に両足部分が強く共振し励起されたのだと思いますよ」
「どうしたら解消するのでしょうか?」
結局、この方の足がビリビリする土地や施設は、本人にとって波動環境が好ましくない居心地の悪い場所ということになる。
しかも足に鋭敏に反応が出る土地や場所というのは、過去において何らかの共通する痕跡があるということでもある。
それが何かということである。
話を伺っていくと次第にそれははっきりしてきた。
まず、足がビリビリ感じられる場所として、祈祷所、墓地、斎場であることがわかってきた。
それと処刑場跡。
戦国時代を含めての、古代の戦場跡。
占いに関係する人、その場所。
人が苦しんだであろう特殊な施設。
それらは何らかの強い人の念(波動)が刻み込まれたであろうと思える場所であったが、それに墓地、斎場までもが含まれているというのが意外ではあった。
これらにはどこかで「準静電界」というものが関係しているようだ。
これは非科学的なことではなくて、生体には微弱な生体電流というものが流れていて体表面周囲にも物理的な準静電界が作られている。
体を取り巻く様に準静電界が広がっているから、そこにはある種のセンサー的感覚が伴うということになる。
武道の達人たちは、みなこの特殊な感覚を身に付けるべく日々鍛錬する。
意識しなければ、通常は何も感知しないレベルのものである。
今回の場合は両下肢を損傷されているから、相対的にはその部分の血液の循環には機能的にも変化があったはずである。
あるいはそうした変化から東洋医学的な気のエネルギーの流れや気のキャパシティー自体に変化が及んでいたとも考えられる。
下肢は機能的にも制限されているとなると、それだけ下肢の気のキャパシティーは通常よりも小さくなっている。
そのことで、周囲の波動環境にも必要以上に過敏になってしまったとも考えられる。
相手が波動であるだけに、そこには共振や増幅といった物理的影響があったともいえる。
生憎とこのような話を人にしても、多くの場合狐につままれたような反応しか返ってこない。
見えない世界のことは、所詮認知されにくいのである。
それでも、人間が準静電界というものに包まれて生活していることだけは確かなことなのである。
食い物が怖い!?
昔から準静電界の世界は知られていた!
人にはそれぞれ食物に好き嫌いといった嗜好がある。
どうしても酒が飲めない、なになにが食べられないという人はわりと多いものである。
若いとき友人の屈強な武道家に無理にビールを飲ませたら、一口飲んだら顔が真っ赤になってそのままぶっ倒れてしまい驚いたことがある。
友人は外見とは違って、アルコールをまったく受け付けなかったのである。
そのように苦手な食品があるとか、ただ嫌いというだけなら話はわかるが、それらに近づくのも恐ろしいとなると話は変わってくる。
もちろんあの「饅頭怖い」の類の話ではないのであるが、世の中には本当にアンコが嫌い、一口も食べられないという人もいるわけだからここらは奥が深いところである。
これに関していくつか江戸時代の奇談を集めてみた。
享保年間のことである。
御先手を勤めていた鈴木伊兵衛という人はどうしたことか百合の花が無性に嫌いであった。
あるとき茶会で仲間が四五人集まった席で、吸い物が出て皆が箸をとったのに伊兵衛だけが不快そうな顔をして落ち着かない様子であった。
いかにも機嫌が悪そうにみえ箸も取らない。
皆が一体どうしたのかと聞くと、「もしかしてこの吸い物に百合の根でもはいっているのではないか」という。
「いや貴殿が百合が嫌いなことは以前から知っていることだから、そのような無礼なことはしない」と、主人が言う。
そうこうしているうちに同席している一座のなかの膳に、なんと百合の絵が描かれているのがあったのである。
これには皆驚いてしまった。
すぐにこの膳を下げて取り替えてもらったところ、伊兵衛は元のように元気になったというのである。
次は鍼師山本東作の伝える話である。
土屋能登守(土浦城主・九万五千石)の家来に樋口小学という医師がいたが、この人は非常に鼠が嫌いであった。
あるとき同僚達で一緒に食事をすることになり、彼もこの席に招かれた。
ところがこのとき彼だけが少し遅れて来ることになったのであるが、皆で「以前から 鼠嫌いとは聞いているが、いかにも妙である。本当かどうか一つためしてみようではないか」、ということになった。
そこで鼠の死骸を持ってきて小学が座る席の畳の下に隠しておいて、そ知らぬ顔して待っいることにしたのである。
しばらくして小学がやってきたのでその席に座らせ、膳も出させた。
すると小学は急に顔色が悪くなり、全身から汗を流していかにも苦しそうな素振りである。
「どうしたのだ」、と皆が声をかけるがそれに答えることもできないほど弱りきった様子である。
いまさら鼠を隠していることなど言えば果たし合いになるやもしれず、皆はそのことには口に出せないまま交互に介抱するより他になかった。
小学が帰宅したいというので人を付けて送っていったが、後から聞いてみると、宿に帰って後はすっかり回復して何のこともなかったということであった──。(以上『耳袋』より)
二つの事例によれば、嫌いな物は恐ろしいほど徹底して嫌いなのである。
ではこのような状況を強いられた者が、極限までいくとどうなってしまうのか。
これについても江戸時代の記録が残されているので紹介しょう。
元禄時代の尾張藩の御畳奉行が書き残した日記に次のようなものがあった。
元禄七年の出来である。
ある男がどうしたことか、焼き味噌を極端に恐れるということで城下で噂になっていた。
それを聞いた藩主源敬公(初代義直)は、この男を直に試してみようと酒宴に呼び寄せ焼き味噌を肴に杯をたまわった。
公は例の男に声をかけられ、その焼き味噌を手ずから下されたのである。
男は焼き味噌を恐れながらも公の御前で逃げることもできないまま、仕方無く手を差し出し頂戴した。
だがその途端、いきなりその手が強直してしまい引くことも曲げることも出来なくなってしまったのである。
この事態に驚いた公は直ちに男を次の間に引き下がらせ、掌の焼き味噌を捨てさせるという騒ぎとなった。
ところがその後、この男の掌には赤黒く味噌の痕が醜く残り、次第にその部分から腐りはじめてやがて死んだというのである。──
このように過去の記録としては残ってはいるが、厳密な意味での因果関係は分からないところではあろう。
こうした事例をみてどう考えるかである。
普通であれば何のこともない無いものが、特定の人にとっては体に害をなすという事態である。
ある種のアレルギー症とみるか、ショック状態があるところをみればアナフィラキシー・ショックというべきか。
いや、何らかの恐怖心からくるのであるのなら心因性、精神性の過剰反応というふうに片づけてしまうというのが西洋医学に近い考えというところであろうか。
むしろすっぱりと、このような現象は「電磁波過敏症」同様に西洋医学の範疇に入らぬと言い切るのが正論であろう。
イレギュラーな情報は削除しても支障はあるまい。
では東洋医学的にみて、こうした現象が説明できるのであろうか。
実は中国医学にはこのような現象を逆に応用した伝統的な治療手法がある。
古代から実践されていた握薬(敷掌心法)というのがそれである。
薬味を手掌にのせるだけ、あるいは握らせるだけで薬(の気)が身体に作用し、治療としての効力を発揮するというものである。
このような治療に関しては、古くは中国の葛洪(二八三~三六三)や呉尚先(一八〇六~一 八八六)の医学書にも記述があることが知られている。
具体的に例を上げてみよう。
16世紀末に李時珍の著した『本草綱目』の石燕(化石の一種)に関する記述によると、これは通常には痔や下痢に効能があるとされるのだが、最も注目すべき用法は雌雄があるとされる石燕各一片づつを、陣痛に苦しむ妊婦の両手に握らせた時に顕れるという。
なんと、それだけで妊婦が苦痛から解放されるというのであるから面白い。
すでては「気」のレベルの話である。
これが本当に事実かどうかは試していないので何ともいえないが、ここから拡大解釈したにしても、実際に石燕に薬気なるものがあるか、いや膳に描かれた百合の絵に気があるか、さらに鼠の死骸や焼き味噌に気があるのかといわれれば、これ以上は私としても答えようがないわけである。
何かの気が出ているとするならば、それがある人にとっては薬気となり一方では邪気となるわけだし、あるいは気ではなくて何かの波動・信号波・微粒子が身体に対して作用しているとこじつけたにしても、もちろんこれではすぐさま科学的な答えとはなりえない。
しかしとにもかくにも、この動植物や薬気に感応し反応する現象、要するに抗原抗体反応を想起させるような人体の未知の部分には少なからず興味が湧くわけである。
余談であるが、かって「文化ゴリラ」とまでいわれ自ら肉体を鍛え上げた作家の三島由紀夫は意外にも海産物の蟹を極度に恐れたということである。
「蟹」の姿そのものはもちろんの事、蟹という字形さえも見るのを嫌って逃げたというから面白い。
まあ、意外といえば意外、世の中にはこういう不可思議なこともある。