「こころの休憩室」


「古地図でたどるわが町・久留米市南部の百年」
当時の久留米市戦災概況図を見る



東洋医学史研 究会
宇田明男

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わが町の歴史を古地図の探索によって追跡してみた。
これまで機会あるごとに集めてきた古老の証言も、町並みの発展の経過もすべてがこれらの古地図に集約されていた。
今回、地方都市の片隅でありながら、古地図の中にわが町域をどうにか補足することが出来た裏には意外な歴史の流れと新たな発見とがあった。


地図そのものは遥か彼方の上空から地上を視たところの鳥瞰図である。
平面的な広がりのある単純な図形としてみることもできるし、想像を広げて起伏のある立体的空間をそこに自在に組み立ててみることもできる。


福岡県久留米市の宇田整骨院・案内地図 古地図にしても確かな地勢の記録として、あるいは過去のタイムカプセルに密封されていた遺物さながらに、時空を越えて目の前に過去の異空間が展開することは、視る者に言いしれぬ感慨をもたらすに違いあるまい。
それが自分が長年居住する地域ともなれば、それこそまた格別の興味も湧いてこようというものである。
とはいえ、大都市の中心部というわけでもない片田舎であれば、そうした歴史文化の蓄積や確かな記録というものはそうた易く出てくるものではない。

筑後一円あるいは久留米を中心に同じテーマで考えれば、古代史を含めてそれ相応の歴史的流れや事跡を紹介することは可能であるが、足元の一つの校区に絞って見るとなるとそれこそ思うようにはいかない。とにかく歴史的色合いが少ない新興地域なのである。(右は宇田整骨院周辺の略図)


福岡県久留米市の宇田整骨院・古地図 私がこの地(福岡県久留米市南部)に移り住んだのは30年ほど前であった。
当時と比べて最近の世帯数の増加傾向はそれほど顕著ではないが、町としての様相は随分と変わってきた。
特に周辺地域の開発が活発化してきていることもあって、道路事情も緩慢ではあるが以前よりは改善されてきている。
現在の久留米市南部の地域図をみるとその変化がはっきりと分かる。(地図1参照・平成15年現在)

十数年前、わが町をまさに俯瞰した航空写真が一面に載った不動産広告が新聞に折り込まれてきたことがあった。
これまで地図でしか視ることのできなかった町域を一望の下に見渡したこの写真が、あらためてわが町の百年の歴史をタイムスリップして振り返ってみるきっかけとなった。
ここ久留米市南部域には特別な歴史的遺物というものはほとんど何もない。
しかも数十年前まで田圃が広がっていたいたような地域であればなおのこと、古い地図上で探しまわっても、町名はおろか何の痕跡も残ってはいないというのが普通ではないであろうか。


昭和30年代以降、地方の土地開発が進み始めた頃は山や田圃が掘り返されおびただしい遺跡が出てきたのだが、当時は文化財保護法などは整備されていなかったこともあってそれらの歴史的遺産は次々と破壊されていった。
当時そうした凄まじい状況を見て子供心にもそれはひどく異常なことのように思えたのを記憶している。
しかも周辺の固有の歴史的伝承地名も新しい地名に変えられ、いわゆる昔の面影というようなセンチメンタルな過去の遺物は次第に忘れ去られた。
わが町にしてもそれは同様であるわけだが、数少ない伝承遺物の祠を探しにいったところすでにそこにはマンションが建っていたこともあった。
そうした状況もあって、過去の地図でわが町の姿をどこまで遡ってたどることが出来るのだろうかという素朴な疑問がふと湧き上がってきたのである。
そして、早速手がかりになるような古い地図はないかと心当たりを探しまわってみたのであるが、意外にも予想していた以上にいろいろな地図資料が出てきたのである。


それこそ古地図というものは第一級の史料である。久留米の市街中心部ならば江戸時代の久留米城を中心に古地図がいくつか残っているのであるが、やはり予想通り当時の地図ではわが町域を確認することは出来なかった。
当時のわが町周辺は久留米の市中図には含まれてはいなかったし、その元となる伝統ある町名などといった確かな痕跡は何もなかった。
ただ町域全体が久留米藩の家老内藤家の土地であったというお年寄りからの伝聞しか得られなかった。
南部の牟田山という地名も、むかし牟田左衛門という古キツネが棲んでいたということで、それ以外には明確な地名記録はないということである。
そこで江戸時代の古地図はここで諦めて、明治以降のものを中心にあれこれ探してみることにした。


明治時代の地図作成について紹介すると、当初は内務省と陸軍省がそれぞれ独自の官製の地図を作成し始めていた。
当時内務省はイギリス式の測量と作図法を、陸軍省はドイツ式をすでに導入していた。
福岡県久留米市の宇田整骨院・古地図興味深いことに国内地図の作成が別々の政府機関で進められていたわけであるが、当時の富国強兵策の元に明治11年になって国内地図の作成はすべて陸軍省に統括整備されることなった。
明治政府は正確な国内地図を完成させるべく、ドイツに技術将校を留学させて帰国後にこの任に当たらせた経緯があった。
この時点で詳細な国内地図はいわゆる軍事機密的要素を一気に高めたわけである。


わが南校区は後で詳述するが、明治後期より軍都として発展してきた久留米市の市街にも近く、軍事上の要衝となる重要な施設が次々と整備されてきた歴史があった。
そのこともあって、校区周辺地域では多くの官製地図が作成されていたことが判明したのである。

右の地図2は明治33年(1900)に大日本帝国陸地測量部によって測量されて、翌年製版された本格的な久留米周辺の地図である。
これによるとわが町の位置はもとより当時の町域の様子がよく分かる。
細い村道が東西に伸びているだけで町並みや民家はほとんど見られない。
一面の原野と田圃が広がっている。
以前当地在住の九十歳のお年よりに尋ねたとき、ここらは昔は一面の松林であったという情報を得ていたが、地図上でもその確認が取れたことになる。
地名として、先に上げた牟田山とか八軒屋、十二軒屋、江戸屋敷、上津、国分、藤光といった旧来の地名がそれぞれ確認できる。
この地図はいわゆる官製(陸軍)のものであるが、当時どうしてこれだけ正確な地図が久留米市街以外の地域まで広範囲に作成されたのか不思議に思われたのであるが、後にの地に陸軍の練兵場が設置されたと聞いて納得した。
というのは多分に地図というものが、当時軍事的に利用されることを前提にして全国的に作成されていたと考えられるからである。
少なくとも、このような地図は一般人の眼に触れることはなかったはずである。


福岡県久留米市の宇田整骨院・古地図 たとえば、同時期に民間で発行された久留米周辺部の地図と精度を比較してみれば、その差は歴然としている。

地図3「久留米付近明細図」(明治35年発行)にしても、それまでの略図的表現からようやく近代的地図の体裁が少しづつ整ってきたというところではないだろうか。
これら二点の地図を比較してみると、100年前の南部地区の原型がどうにか浮かび上がってくる。
100年前の明治30年代当時のわが町域は、ほとんど民家もなく雑木林か荒れ地という状態であったことがはっきりこれらの地図で確認できるわけである。
この時期、北部九州の軍事的基盤は着々と整備拡張されつつあった。久留米でも明治30年(1987)に第二十四旅団司令部が置かれ、歩兵第四十八連隊が福岡より久留米市南部の国分村(現国分町)に移駐してきている。
その当時に作成されたらしい地図「国分町全図」を見ると、司令部は現在の国道3号線沿いの久留米市諏訪野町当たりにあり、兵器部、火薬庫がそのすぐ南側に隣接していたことが分る。
その後さらに明治40年(1907)には第十八師団が設置され、久留米はいよいよ北部九州の軍都としての態勢を備えていった。福岡県久留米市の宇田整骨院・古地図
やはり、このような地方都市の詳細な地図が計画的に作成された理由もここらにあったのではないかと推察するわけである。
明治40年代当時、わが南町地区には騎兵第二十二連隊、軽重兵十八大隊、野砲兵二十四連隊、山砲兵第三大隊が置かれ、広い練兵場を前にその兵舎や関連施設がいくつも連なっていたことを示す地図も出てきた。

(地図4参照・大日本帝国陸地測量部・明治末作図)
練兵場の西側の鹿児島本線荒木駅から軍事物資や戦車、その他の重火器が運ばれた。


さらに昭和三年になると、久留米・吉井間に鉄道(久大線)が開通し、陸上輸送の体勢も整ってきている。
直接確認はしていないのだが、現久大線の南久留米駅には戦車を鉄道列車に積み下ろしするための戦車台がいまも残っているということである。
発行年代の不明瞭な古地図でも、鉄道路の有無や施設部分の増設の様子によっておおよその年代が推定できる。
これらの地図によると、練兵場施設周辺や道路沿いに民家が徐々に増えてきているのが分かる。
福岡県久留米市の宇田整骨院・古地図市中心部周辺からの人や物資の流れがさかんになり、練兵場周辺で次第に関連資材の生産や経済的な活動が生じてきたことを反映しているようである。
戦前の町並みを画いた地域図を見ると、市中心部より練兵場に延びた道沿いに旅館や軍刀を扱う専門店も次々と出てきている。まさに門前市を成すといった状況がうかがえる。
北部九州の広い範囲から徴兵された兵士は、この久留米の練兵場において厳しい訓練が行われ後、戦時中は外地へと各部隊が続々と出征していった。(地図5参照・大日本帝国陸地測量部・明治44年測量、大正2年発行)
この場所は多くの将兵の足跡が残されていた練兵の地であって、明治、大正、昭和と施設の拡張が続き、戦前まで帝国陸軍の重要拠点として存在し続けていたわけである。

久留米の歩兵第四十八連隊の兵士は主に久留米を中心に福岡県南部と佐賀県から召集され、1936年4月に満州に派遣された。
同連隊は東京(トンキン)城を中心に隊務に就いた後、終戦の年1945年3月には台湾方面に転戦していた。
出征時には、各連隊地から徒歩で久留米駅まで行軍し、そこから列車で長崎佐世保港に向かったという。
福岡県久留米市の宇田整骨院・案内図 おそらくそのようにして出征していった全体の兵員数は延べ数十万人にも及ぶのではないだろうか。


実際にここに召集され訓練を受けたという人に幾度も遭遇したことがある。
当時の厳しい訓練の様子や立ち並ぶ兵舎の位置関係や家族面会時の思い出などうかがったことがある。
入隊練兵中の兵士らに遠方から面談に来る家族もあって、練兵場上の北側には当時何軒もの旅館や料亭が出現していたようである。(地図6参照・大日本帝国陸地測量部・昭和3年以降の発行)
練兵場の敷地内の東西に兵舎などの施設が立ち並び、それらの建物の南側に広大な練兵場が広がっていたことなどが当時の地図で確認できる。
福岡県久留米市の宇田整骨院・古地図 兵舎と道路の間には、高い土手があって外部からは覗えないようになっていたことや、広い練兵場の南端には松の木があって、訓練でよくそこまで全力で走らされたということであった。

昭和16年に発行された久留米商工史付録の「大日本職業別明細図・久留米市」(東京交通社)では市中心部の商店名などは詳細に書かれているが、軍関係の施設については一切省かれている。(地図7参照・久留米市編入当時の国分町全図)
市南部に施設が集中していたこともあって、道路施設だけが簡略的に画かれているだけである。
地図の編集内容を見ていくだけでも、この当時次第に戦時色が強くなってきていることが感じ取れる。
昭和20年6月18日に大牟田市が爆撃された際、米軍爆撃機が撃墜された。
その1月後、その巨大なジュラルミン製の残骸がこの練兵場に運び込まれ、国民の戦意高揚ということもありその大展覧会が華々しく開かれ多くの市民が見物に訪れたという。
そうした市民の中には、ジュラルミンに覆われた米軍機の堅牢な防弾構造を知って驚き、今更ながらに敵国の物量の凄さを知った人も少なくなかったという。


しかも米軍は、この昭和20年の7月末と8月初めにかけて久留米空襲を予告するビラを相当数撒いており、市民の危機感は高まっていた。
当時、米軍のビラを拾ったら、そのまま警察に届けることになっていたらしい。(写真(右):B24爆撃機、(左):P38戦闘機
その予告通り、展覧会から間もない8月11日10時20分、終戦の間際、久留米市は沖縄から飛来したB24爆撃機80機、艦載機P26、 P38 約50機の襲来による集中的都市爆撃で多大な戦災被害を受けた。
総重量500トンにも及ぶ多数の大型焼夷弾と爆弾によって死者214人、重軽傷者160人、罹災者数2万人、消失家屋4千5百戸余の甚大な爆撃被災を受け、久留米市中心部の都市機能はほとんど壊滅状態となった。


アメリカは日本家屋の大半が木材と紙で出来ていることから、それらを住民もろとも一気に焼き払う目的でM69集合焼夷弾と呼ばれる引火性油脂を主成分とする焼夷弾という新式の爆弾を開発した。
それは六角形の鉄の円筒にゼラチン状の油脂成分を充填したものを束ねた構造で、通称ナパーム焼夷弾とも呼ばれたものである。
米軍は都市攻撃の効果をさらに高めるために、このナパーム弾38発~48発を一束にまとめて220ポンド~最大750ポンドの大型焼夷弾を標準化した。
日本本土爆撃においてB29はこれを1機に最大40個を搭載して連日のように飛来し、都市部を集中的に攻撃した。(右の写真は米軍が撒いたビラ)
大型焼夷弾は投下後、地上約300mの空中で時限装置が作動し自動的に本体が分解してナパーム弾が分散しながら広い範囲に落下する。
着弾時に中身の油脂は四方に飛散し、猛烈な勢いで燃え広がり火災を発生させる。
もとより建物が密集した市街地の建物と市民のすべてを無差別に焼き払う、いわゆる非人道的殺戮焼却爆弾であった。

この爆撃によって一夜にして久留米市の中心部は破壊焼失し、それまでの町並みはまったくの焼け野原となってしまった。
そのため戦後復興後市内中心部の道路は、地図を見ると戦前のそれとはまったく異なった路線となって現在に至っていることが分かる。
市中支部を流れる現在の池町川は、昭和21年の戦災復興都市計画で川幅が約2倍に広げられ、位置も少し南側に移されている。 (戦後半世紀経って、消失した町並みの詳細な地域図が有志によって復元作成された)
展覧会の会場ともなった南部の軍施設や練兵場一帯は、中心部から2キロ以上離れていることもあってこのときの爆撃の被害にはあっていない。
軍施設がほとんど無キズであったということは意外である。
米軍の攻撃の目標はこれらの軍事施設ではなく、むしろ市街中心部の無差別の民間人攻撃であり、これは明らかに市民の戦意喪失を狙ったものといえる。


当時、市内に居住していて当日の爆撃に遭遇し、奇跡的に助かった女性の体験談を伺ったことがある。
その方は、警報サイレンと同時に屋外に走り出て近くの防空壕に一旦避難しようとしたが、周囲から逃れてくる人が多く、自分が妊娠中で大きなお腹をしていたこともあってその防空壕に入らずにそののまま逃げたということであった。
後で分かったことであるが、その防空壕には爆弾が直撃し避難していた人たちはみな亡くなったということであった。


戦後復員された方々も鉄道輸送が寸断されていて移動には相当難渋されたということで、鳥栖から久留米まで借りた自転車で走ってやっと家に辿り着くという状態だったという。
久留米市内は焼け野原ですっかり荒廃し、かっての面影もない酷い状態が一面広がっていたという。


戦争直後は練兵場の多くの建物施設が引揚者の住宅や開墾農地に転用されたということであったが、50年以上経過した現在ではその面影はほとんど残ってはいない。
元軍属や引揚た人々が多数入植してこの一帯は農地として開墾され、練兵場施設跡にも民家が少しづつ建ち始めたわけである。
そうした経緯から見れば、ここはまったく戦後の新しい町域なのである。
ただ広い面積を占める学校関係の施設と市営住宅や団地が、道路沿いに並んでいるところをみるとこれが当時の建物の区画跡かなと思える程度である。
練兵場の跡地がそのままの枠組みとなって、いまの町域が戦後発展してきたことは戦前のこれらの地図を視れば容易に分かるというわけである。
百年の間にこれだけの変貌を遂げて出来上がった町並みと町域ということで考えると感慨深いものがある。
久留米という一地方都市の片隅を占めるに過ぎないわれらの校区も、このように観てくるとそれなりの独自の歴史があるということである。
それこそ地図で視る郷土の歴史としては、ここの校区の事例は格好の教材になるのかもしれない。(右の図は久留米市戦災概況図)


平成14年11月5日、当方の住所地の表示も全面的に変更整理されて「久留米市南町」から「久留米市南」となった。
 



「参考文献・資料」
1.地図1 「南町地区住居表示の実施に伴う町界町名変更(案)久留米市 平成14年
2.地図2・大日本帝国陸地測量部 明治33年発行
3.地図3・「久留米付近明細図」金文堂 明治35年発行
4.地図4・大日本帝国陸地測量部 明治末作図
5.地図5・大日本帝国陸地測量部 大正2年発行
6.地図6・大日本帝国陸地測量部 昭和3年発行
7.地図7・「国分町全図」 作図時期不明
8.「南町地域における新住居表示の実施について」 久留米市 平成14年
9.全国戦災都市別被害状況表 (昭和54年3月内閣総理大臣官房管理室による日本戦災遺族会への委託調査『全国戦災史実調査報告書』
10.第二時大戦に於けるアメリカ陸軍航空軍戦闘日誌(対本土作戦のみ)1945年 6月~8月
11.「大本営発表」「軍管区司令部発表」昭和16年12月~昭和20年8月
12.鳥飼行博研究室Torikai Lab Network 日本本土空襲 U.S. Bombing 1944-45
13.全国主要都市戦災概況図

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