「こころの休憩室」


◎したたかな話(シーボルト事件秘話)

東洋医学史研究会
宇田明男


江戸時代の眼科の泰斗として知られた土生玄碩は安芸国吉田の眼科医の家に生まれ、鍼を使った白内障治療の新しい術式を考案した人物である。
大阪で蘭方を学びさらに江戸に出てからは眼科の名医として知られ、ついには将軍の侍医として法眼の位に叙せられていた。
ところが文政十二年(1829)丑年十二月十三日、この土生玄碩と子息の玄昌父子両人がシーボルト事件に連座し、改易となる事件が起こった。
その経緯を記した当時の記録には次のようにある。


「先達、オランダ人江戸逗留中、伜玄昌義、対話として罷り越し候処、外科シイボルト 義、眼科療治法の秘薬所持致す旨承り、其方へ申聞け、右は眼科第一の妙薬と相聞こえ、 且つは疑わしくも存じ、其方義旅宿へ罷り越し、シイボルトへ対話、効能をも試し候処、 実に希代の薬験之有り感伏致し、万人の助けに成らる可き義に付き、伝授受取り度く、夜 中忍びにて度々罷り越し、オランダ人と懇意を結び候へども、容易には伝授致すまじく、 カピタンへ相願い然る可き哉と然りてカピタンの歓び候品遣し度く言い含め、その教えに 任せ、何の思慮も無旨○御召御紋の羽織を差し遣わし、薬法伝授の義取り計らひ呉れ候様 相願ひ候処、シイボルト義も右体の品望みの趣申し聞け候に付、其後時服御紋附御帷子差 し遣わし候処、薬法伝授致し呉れ候間、謝礼として猶又御紋服遣わし候段、たとえ私欲に かかわる義には之無く、弁へざる義に候とも、御国禁を背き候段、不届きの至りに候、之 に依り改易仰せ付けられる者也。」(『藤岡屋日記』)


この事件が起こる丁度十年前、文政六年(1823年)7月3日、シーボルトは長崎出島 のオランダ商館付医師としてバタビアを経由して初めて日本に来航し、ここを拠点にして医師として精力的に活動を開始し ていた。
やがて彼は長崎の地に鳴滝塾を設立し向学心に燃える優秀な塾生を集め西洋医学を教授したので あるが、これは当時としては実に画期的な事業であった。
それまでの閉鎖的な医学教育とは比較しよ うもないオープンな外科手術法の伝授に、多くの塾生達は目を見張った。
その中には、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介らがおり、最新の西洋医学を講義された。
シーボルトは多くの塾生を教えながら、一方で広範な「日本学」の研究を精力的に進めていた。
塾生達がオランダ語を習得し始めると、シーボルトは次々とオランダ語による研究リポ ートを提出させると共に、これによってあらゆる分野の日本文化の資料や標本を収集することが可 能となった。
鳴滝塾の事を聞きつけて全国各地から蘭学を学ぼうとする俊英が数多く集まってきたから、 こうした人材には事欠かなかった。

シーボルトは西洋の薬物情報を記載したテキストを作成すると、それを塾生の一人である高良斉に日本 語に翻訳させると、文政年八年(1825)には『薬品応手録』として大阪で出版した。
シーボルトは日本国内の医学の現状に強い関心があり、特に鍼灸術をはじめ本草学に精通した医師達と積極的に交流したが、こうした西洋の薬物情報関連の出版物は当時の蘭方医達に少なからず影響を与えた。
しかもこの『薬品応手録』という医学書は、実に意外な情報を秘めていたのであった。
こ こでいう意外な情報とは冒頭で紹介した当時の眼科医、土生玄碩にとって、という意味に おいてである。
この医書の内容からいけば医学書というより薬物書というべきであるが、当時の入手し 易い外国産薬物の効能や用法の解説はもちろんのこと、特に実用度を高める意味で日本産 の薬物を主体にして編集されていることが大きな特徴であった。


このなかにはジキタリスやベラドンナといった薬草についての解説があった。 当初『薬品応手録』は鳴滝塾でテキストとして使われ、シーボルトの江戸参付のとき各 地で交流した医師たちにも贈られた。
もちろんこの画期的内容の医書自体は、眼科医・土生玄碩の手にも渡っていたはずなのであるが、この当たりの行き違いやねじれた経緯がもとで、シーボルト事件がスキャンダラスナなものに変貌 していった。


長崎からの江戸参府は五年ごとに行われ、文政年九年商館長スチュレルに随員としてシーボルトも このときのオランダ使節団に参加した。
シーボルトは各地の宿泊所で多くの蘭学者や本草学者らと学術交流を行ったのであるが、 江戸ではこの土生玄碩当人とも会見している。
玄碩はこのときシーボルトの眼科手術の講義を聞き、自分の術式を彼に詳しく説明したところ 高い評価を得たのである。
事実、シーボルトは玄碩の画期的術式には驚いているのである。
さらに後日、シーボルトは薬剤によって瞳孔を開かせる実験を玄碩に見せたのであるが、 今度は逆に玄碩の方が驚嘆してしまった。
この開瞳用の薬剤さえ手元にあれば、玄碩の行う眼科手術は格段にやり易くなるはずであった。
ところが玄碩が再三にわたってシーボルトに問いただしたのだが、どうしたことかすぐに は薬剤の処方を教えてもらえなかった。


玄碩は非常なあせりを覚えたらしい。度々シー ボルトの元を訪れてウナギの蒲焼、駅路の鈴、さらには春画といったものまで贈るという 具合に、あらゆる手立てを尽くして必死になって聞き出そうとするがまったく埒があかない。
実はこの薬剤についてはすでに前述の『薬品応手録』に記載されていたのである。
それがベラドンナ(莨とう・中南欧産の多年草であり日本名はハシリドコロともいう)であり、 開瞳薬の主成分となるものであった。
ここで何故にシーボルトがすんなりと処方を教えなかったのか理由はいろいろと考えられようが、微妙な部分だけに第三者には理由は分からない。
シーボルト自身は学生時代に幾度となく決闘をした経験もある無骨な一面を持った人物であり、性格的には高慢で自意識が強い上に、無遠慮なところや目的を追行するにも相手構わず強引なところがあったという。
一方の玄碩も若いときは放蕩三昧な遊び人であって、争いも多く医者仲間から「ホラ貝玄碩」と嘲られたこともあるような強い個性を持った人物である。
このような交換条件を伴ったある種の取引ともなれば、当然両者ともそれなりに構える部分はあったろうと思う。
意地と意地とのぶつかり合いといった、相当な駆け引きと険悪なやり取りもそこではあったのではないか。
お節介なことではあるが、ここで交渉がうまくいかなかった理由を思いつくままにいくつか上げてみよう。


1.開瞳薬は眼科治療には不可欠の貴重な薬剤であったから、シーボルトは始めから教授 に対して何らかの見返り(交換条件)を要求するつもりであった。事実有用な医学情報と引き換えに、それまでにもシーボルトは珍しい物品を医師たちから度々受け取っていた。
2.ベラドンナはすでに『薬品応手録』に記載されている薬物である。それに全く気付かぬ玄碩の不勉 強さと情報に対する安易な態度が、シーボルトを不快にさせたのかも知れない。
3.日本一の眼科の名医、流行医者、将軍の侍医、法眼の位ということで、シーボルトに対しても高慢な 態度を取った。この背景には玄碩のシーボルトへ対するライバル意識がどこかにあったの ではないか。
4.玄碩は目薬の売薬で莫大な利益を上げて巨富を蓄え、さらにこれを高利貸 している人物であったから、医者とはいえシーボルトには金銭に執着した胡散臭い人物に見えたかも知れない。
5.気性が激しいだけに、両者とも単に気が合わなかった。


どれが該当するか私には断定できないが、結果的には玄碩は大きな代償を払わされるこ とになる。
とうとう玄碩は薬剤名を聞き出すのに、将軍より拝領の三つ葉葵の紋服を国禁を犯してシ ーボルトに贈ってしまうのである。


文政十一年(1828年)9月17日、バタビア仕立てのオランダ船、コネリウス・ハウト マン号は長崎で猛烈な暴風雨に遭遇し稲佐海岸に乗り上難破した。
シーボルトは任期満ちてこの船で帰国する予定であり、日本における大量の学術資料を 船に積み込んでいたが、役人による被害調査を兼ねた積荷検査でご禁制の日本地図が船内から偶然発見されたのである。
このとき出てきた地図類はあの伊能忠敬が測量作図した高精度の『日本輿地全図』の写しであった。
日本全土がほぼ正確に計測され作図された地図として江戸城紅葉山文庫(歴代将軍の霊廟と機密文書・図書の収納庫)に秘蔵されていたものであり、結果的には当時の日本の最高機密情報がシーボルトによってまさに国外に持ち出されようとしていたことになる。
それらの地図の中には間宮林蔵による北方の樺太の地形情報も含まれており、当時これらは日本が唯一正確な測量を行っていたものであった。


もとより幕府が管理している秘蔵の地図であるからには、当然外部持ち出しは制限されていたと思われるのであるが、実際にはそれほど厳重ではなかったように思える。
そもそも紅葉山文庫を所管する書物奉行の高橋作左衛門景保が、江戸参府の際江戸城を訪れたシーボルトを密かに文庫内に案内してこれらの地図を見せたことが、地図の持ち出し漏洩のきっかけであった。
シーボルトは地図の内容とその精度に驚くと共に、高橋景保に対して巧みに交換条件を持ち出してこれらの測量図の写しを譲り受けたのであった。
この辺りの経緯として、「私は城番の家来を買収して将軍の御殿のよい見取り図を手に入れることに成功した」とシーボルトは自慢げに書き残している。
後日伊能図を持ち帰ったシーボルトは、オランダでメルカトル図法に修正した「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」として、したたかにもこれを刊行している。


さらにこの事件で幕府役人を驚かせたことは、シーボルト宅の捜索で土生玄碩が贈ったとされる持ち出しご禁制の葵紋の羽織が出てきたことであった。
(徳川家の家紋である葵の紋は歴代の将軍によって紋様が微妙に違っている。
当時の第十一代将軍家斉(いえなり:在位1787-1837)の紋章は、右の通り13葉のものである。)

発覚に至るまでに何らかの事前探索や密告があったのかもしれないが、 これがシーボルト事件の発端であり、これによって土生玄碩・玄昌父子が改易となり座敷牢に拘禁されたわけである。


シーボルトは学術研究においては、その標本の入手、資料の収集については非常な好奇心としたた かさを持っていた。
各種の標本や禁制品の日本地図や最高機密の江戸城内の詳細な図面などを入手している事実を見る と、土生玄碩同様、目的貫徹に至るまでは並みのしたたかさではないことは明白である。
彼の一連の違法探索と情報収集活動そのものは外国人によるスパイ行為とみられても仕方のないものであったろう。
シーボルト事件によって鳴滝塾の優秀な塾生(23人)の多くが次々と連座して罰せられ獄死していった。
ご禁制の地図類を手渡した幕府天文方の役人高橋景保も捕らえられ同様の結末であった。
外交方の筆頭でもあった高橋は獄死(1829年3月20日急死)したが死体はそのまま塩漬けにされ、刑確定時に斬首という厳しいものであった。
ただ、シーボルトは結果的には国外に追放されたのであるが、この事件ですべてを失ったわけではなかった。
ここでもシーボルトはしたたかさを発揮して、追放時には没収されたはずの図面の写しをしっかりと隠し持って帰国した。(1829年12月30日長崎出港)


一方の土生玄碩がしたたかというのは、誇大な市中広告によって目薬販売を行い巨富を得た 事実からも容易に察せられるが、それよりもシーボルト事件で彼の領地や膨大な貸金がお上に没 収され、しかも入牢という事態に陥っても少しもへこたれはしなかったからである。
普通入牢すれば、その過酷な状況からいけば数カ月もしないうちに健康を損ない病死ということも考 えられるのであるが、そこはしたたかな玄碩である。どこからともなく大金を融通してくる。
このとき玄碩は、手回しよく金銀を二つの油樽にいれて深川に沈めておいたのだった。
この用意周到さ と緊急時の肝の座った対応には、あきれるばかりである。
こうした潤沢な資金を使って、ころあいを見て各方面に巧妙な赦免工作を手配した。
もとより彼の名医としての実績は幕府も無視できず、やがて許されて無事出獄することが出来るのである。


その後、玄碩は現役復帰して87歳の長寿を得ただけでなく、日本の近代眼科学発展に貢献した医師として高く評価されるに至った。
意外な展開であるが、その功績により彼の頭蓋骨は現在東京大学医学部において学会の宝物として保存されているということである。
シーボルトと土生玄碩とは医者というだけでなく、互いにどこかしら似ているのである。
もちろん、その目的貫徹にみせる並外れた強固な意志としたたかさという点で、見事に。


          (3/10/10)







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