「こころの休憩室」


「死相」の話・曲直瀬道三外伝

東洋医学史研究会 宇田明男


戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した人物に、曲直瀬道三(まなせどうさん)という名医がいた。
幼い時に両親を亡くして、当初は僧籍に身を置いていたようである。
漢学などの学問に秀でていただけでなく、若いころより医術の道を志すようになっていたが、幸いにも足利学校でさらに専門的な勉学を続けることができた。
当時明国から帰国したばかりの足利学校の教授田代三喜について、最新の李朱・中国医学を学び、それを完璧なまでに習得した。

道三は、「医学は身分・性別・年齢を問わぬ。誰であっても平等に治療せねばならぬ」という、師田代三喜の教えを終生守り医学の研鑽を怠らなかった。
その後、京都を中心に医療活動を始めたが、その卓抜した診断治療によって一躍名医として知られるようになった。
信長や秀吉といった当時の名だたる大名家に重用されただけでなく、格式高い宮中にまで出入りが許されるまでになった。

その名声を聞いて、曲直瀬道三のもとには入門を希望する俊才が全国から続々と集まってきたという。
曲直瀬道三・福岡県久留米市・宇田整骨院 道三自身は、そうした若い門弟を育てることにも力を注ぎ、医学を教習する啓迪塾という私塾も自ら建てるとともに、寸暇を惜しんで後進のために多くの医学書を著述した。
ここで医学を学んだ弟子の数は優に数百人にも及ぶといわれ、我が国の医学中興の祖として大きな足跡を残したことでも知られる。
右の写真は、曲直瀬道三が著した医書『察証辨治啓迪集(外題:啓迪集)』の写本・出典 東京大学附属図書館所蔵

この名医曲直瀬道三には、その診断の巧みさで一度に多くの人命を救ったという逸話が残されている。

道三が数人の弟子を連れて諸国を遍歴していたときのことである。
中国地方の大名毛利家での病気治療を無事に終えて、京都に帰還する道中であったともいう。
道三一行がある海岸沿いの小さな漁村に差しかかったとき、一人の少年に出会った。
その少年の顔を見て、道三ははっとした。
その少年の顔色に、はっきりと死相が現れていたからである。
少年の顔色は青白くくすんでいた。たち振る舞いには特別変わったところはなかったが、道三の目から見ればそれはまさに死期の迫った病人の顔色であった。

道三は不思議に思いつつ、その少年に近づくと親しげに声をかけた。
「この当たりに宿を貸してくれる家はないかのお?」
道三一行は皆剃髪していたので旅の僧侶によく見間違えられる。老僧然とした道三の顔をしげしげと見つめていたその少年は、微笑みながら答えた。
「それなら、おれのうちに泊まればいいよ」
少年は道三一行を自分の家に案内するという。すかさず弟子の一人が、困惑した表情で道三に近づくと耳元でささやいた。

「先生、きょうの宿は次の宿場町に泊まる手筈にいたしておりましたが」
「いや、今宵はこの子の家にどうしても泊まらなければならぬのじゃ」
道三以外は、だれもこの少年の異変に気づいてはいなかった。

道三は医学書の上だけでなく、常に実際の診療を大事にして弟子を養成していただけに、このような時も医師としての立場を寸刻も忘れなかったのである。

村中に足を踏み入れると、道三は周囲に漂う異様な気を感じとった。
どうしたことか、すれ違う村人の中には少年と同じように顔に死相が現れている者が幾人もみうけられたのである。
道三は、案内された村中の少年の家でも異様な光景を目にした。
人の良さそうなその漁師の父親は、道三一行を家の中へ快く招き入れてくれた。
道三がそれとなく少年の両親や幼い兄弟達の様子をみると、皆その顔に死相が現れていた。

このように人の顔色の変化をみて診断(望診)することは中国から渡来した医術の奥義であって、まさに名医のもっとも優れた技量を示す診断法の一つであった。
当時は、直接脈を診て病状を知る精緻な脈診さえも、そうした高度な診断法には及ばない技量であるとされていた。

道三はいよいよ不審に思って、その少年と家族全員の脈を弟子たちに診(み)させたがいずれも精気が失われようとする死脈そのものであった。
弟子たちはここで始めて道三からこの場の異変を知らされて、驚くと同時に戸惑うばかりであった。
「先生これは一体いかなるわけでございましょう?」
「うむ」
何人もの者が一様に死脈というのは、異様なことで通常は有り得ないことである。
近隣には疫病が流行っている様子はない。
死相、死脈が出ていながら、命いくばくもない重病人のように床に伏せっているわけでもない。
これには道三も考え込んでしまった。

道三はそのまま屋外に出ると、浜辺へとゆっくりと足を進めた。
絶え間なく浜辺にうち寄せる波を一心に見つめていたが、一瞬その道三の心に閃くものがあった。
「もはや猶予はあるまい」
道三は、眼前の碧い海の彼方を見つめていた。
・・・・・・この場所、この土地の風水そのものに恐ろしい災禍が隠されているようだ。---
それは、この異変が天変地異の前触れかもしれぬという、不安とも予感ともつかぬ思いであった。

「身近に予期せぬ危機が迫ってきておる。一刻も早くこの場所を離れなさい」
道三は意を決すると漁師の家族はもとより、村中の者に近くの山へ避難するようにすすめた。
道三の弟子たちは、一斉に外へと走り出すと村人に危機を知らせて回った。
村中はたちまち騒然となった。旅医者の狂言として嘲笑する者、怯えて座り込んでしまう者と、上へ下への大騒ぎとなった。

それでも村人の半数近くは、道三の言葉に従って足早に近くの山へ避難しはじめた。
少年とその家族も半信半疑で道三の言葉に従った。
海辺の村から退避した村人たちは、一様に不安げな面持ちで山の上から真下に見える村の様子を窺っていたが、穏やかな海面や村の眺望には何の変化もなかった。
曲直瀬道三・福岡県久留米市・宇田整骨院
「あれぇ、波が、波がやってくるよー!」
突然の子供の叫び声に一同は海の彼方に目をやった。
遥か彼方に水平線に黒々とした巨大な波の壁が見えた。
「あれは津波じゃ。大津波じゃ」
悲鳴に近い村人達の声があがった。

巨大な波柱は恐ろしい早さで真っ直ぐこちらへ近づいてくる。
果たして不気味な海鳴りがしたかと思う間もなく、泡立つ大波が周辺の海岸に襲いかかってきた。
海岸沿いの小さな村は一瞬のうちに大波の渦に飲み込まれ一たまりもない。
波頭はさらに山に向かって這いあがりながら、轟音とともに木々を次々となぎ倒していく。
海全体が大きく膨れ上がり、ごうごうと唸りながらいまにも山上にまで襲いかかってきそうな勢いであった。
山上から、道三らは一部始終を見ていた。

津波の到来も一瞬なら、去っていくのも一瞬であった。
破壊された海岸沿いには先ほどまでの村の面影はまったくなかった。
瞬く間に大波がすべてを押し流し、抉り取るように村中の家屋を飲み込んでいった。
道三の足下で震えている少年の顔には、もはや死相はなかった。
津波から逃れた村人達の顔からも、おぞましい死相がすべて嘘のように消え去っていた。

このときの大津波は大地震によるもので、京都や近畿周辺にも甚大な被害を及ぼしたものであったという。

その後名医道三は、戦国の世を悠々と生き延びて文禄四年(一五九五)に逝去したが、八十八歳の長寿であった。

         (3/10/10)






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