「こころの休憩室」


郷土・筑後地方の謎に迫る(3)

九州王朝のお宝鑑定

● 東洋医学史研究会
宇田明男


[質問]どうして大和王権の宝物であるはずの七支刀が、物部氏の武器保管庫から出てきたの?
七支刀の形や由来について、どうして文化史的考察がされないの?
七支刀は征圧された古代九州王朝の宝剣みたいで大和王朝の王統には繋がらない記念遺物だから、これに深く触れることはいろいろと不都合があるということかな?


磯上物部神・九州七支刀
みやま市瀬高町(太神字鬼木ノ二)にある高野の宮(高良大社の天慶神名帳に磯上物部神とある)には、七支刀を手にした古代の武人像が安置されている。
古来より筑後地方では由緒ある神名であるが、建物自体は数年前に氏子や有志の協力で新しく建て変わって小さなお堂という感じに変わっている。
明治6年に、奈良県天理市の石上神宮で七支刀が発見されたのであるが、それ以前から当地栗の内の七軒の氏子によって七支刀を手にした神像はひっそりと部外者に知られることなく守られてきたものだという。
文献や資料が残されていたようだが、残念なことに戦前の火災でそれらは焼失したという。
そのためお宮の由来や縁起に関わる情報は地元にも一切伝わっていない。
磯上物部神・九州七支刀
こうやの宮に不思議な姿の神像が安置されていることは、戦後になって地元郷土史家の地道な調査活動によって偶然発掘されたものである
それ以降、九州に七支刀を持つ神像があるということで注目を集め、テレビ取材等で広く報道されたこともあって現在は町指定の文化財になっている。
七支刀に関係する遺物は、九州ではここだけであるが、七支刀そのものは天理市石上神宮に現存する。
天理市石上神宮の宝物である七支刀の表面は金象嵌されており、銘文がその裏表に掘り込まれていることで当初より内外の古代史分野の学者に注目されてきた。
その銘文も、解読の作業と研究によっていく通りかの読み方があるということで、その度に話題を呼んだ。
磯上物部神・九州七支刀
(表)「泰和四年十(一)月十六日丙午正陽造百錬磨七支刀(出)辟百兵宜供供候王□□□□作」
(裏)「先世以来末有此刀百済王世(子)奇生聖音故為倭王旨造伝示後世

『日本書紀』神功紀五十二年(372年)の条に、七枝刀に関連付けられる記述がある。
「秋九月丁卯朔丙子、久氏等、千熊長彦に従いて詣る。則ち七枝刀一口・七子鏡一面、及種種の重宝を献ず。(中略)是より後、年毎に相続きて朝貢す」
『日本書紀』の記述どおり、神功皇后が百済から献上されたという「七枝刀(ななつさやのたち)」が、これに当たるといわれている。
これが事実とすると、高野の宮の七枝刀らしき物を手にした武人像が何者なのかがあらためて問われてくる。
書紀の記述通りであれば、当然神功皇后(女神像)が七枝刀を手にしていなければならない。
磯上物部神・九州七支刀この点を考えると、こうやの宮の七枝刀を持つ神像が武人風の男性像であることは大きな矛盾点となってくる。
武人像は七支刀を手にして、それを周囲に誇示すことによって何らかの権威を表徴しているのは確かである。
その権威とはもとより王権としての統治権であり祭祀権である。
武人像の服装が変わっていることから、この像は百済から渡来してきた使者ではないかとする説もある。
もしもこの武人像が百済の使者であるとするなら、これまたおかしな設定ということになる。
武人像は、七枝刀そのものを手にした姿である。
宝刀を携えてきた百済の使者自身が、その七枝刀をここで抜き身のままで手にしてみせるなどというのはどうにも無理な設定である。
儀礼として贈られる宝物は丁重にそれなりの箱に収められているはずで、使者ごときが抜き身の状態で宝刀を相手に差し出すわけがない。

磯上物部神・九州七支刀贈る側からすれば、しかるべき形で丁重に差し出されるのが当然の儀礼であり作法であろう。
あくまでも、ここで王権としての権威を示すのは七枝刀を贈られた側であって、贈った側ではあるまい。そうでなくてはこの地に神像として祭られる意味がないではないか。

問題は、当時の古代九州にそのような強大な王権というものがあったのかということになる。
朝鮮半島や大陸とも近く、文化的地政学的に考察すれば大和王権成立と相前後して、九州にも独立した王権があったと考えてもおかしくはない。
古代九州に王権があったと考えれば、そうしたいくつかの矛盾点はなくなる。
つまり「為倭王旨造」とは、「倭王旨の為に造る」と読み解く説が正しいということになる。
もちろん九州王朝の存在自体を否定する側から見れば、こうした見方は端から受け入れられないであろう。
これまでのところ、刀身の銘文から泰和4年(369)に作刀され、百済の太子貴須から倭軍派兵によって高句麗を討った御礼に倭国王旨に献上された刀であるとする説が有力である。
当時の王権にとっては、これはまさに外交上の記念的宝物ということになるわけで正史にも記録されてしかるべき事跡であろう。
ところが、王権にとっては宝物ともいうべき七支刀そのものは、不思議なことに大和朝廷の宝庫には納められることはなかった。
収蔵されるどころか、物部の武器保管庫に紛れ込んでいたのだ。一体これはどういう展開を意味するのであろうか?
磯上物部神・九州七支刀七支刀が、天理市の石上神宮で偶然発見されたことは日本の古代史に新たな光を当てたことになる。
七支刀の辿った歴史的意味合いは実に奇妙であるし、その変転も興味深いわけである。
結局のところ、九州王朝の倭王(旨)に七支刀が贈られていたのだが、後々大和政権が九州を征圧してその統治権を簒奪した後に九州から意図的に持ち去られたことになるはずである。
当然のことであるが、大和朝廷は九州王朝を表徴するこの遺物をそのまま宝庫に納めることも憚れて持て余したのではないだろうか。
そうなると、どうやら大和王朝が正当な七支刀の継承者ではなかったということが明らかになってくる。
対外的にも貴重な宝刀であるはずの物を王朝の宝庫(正倉院などの)に納められない本当の理由がここらにあるとなると、結局この七支刀という宝刀は大和王朝の王統にはまった関係のない遺物ということになってくる。
大和王朝から見れば、この宝刀は征圧王朝の不都合な記念遺物に過ぎなかったということになろう。
この不都合な記念遺物をどうにか収納できる者がいるとすれば、それは古代より軍事部門の系譜を色濃く持つ物部氏族ということになる。
もとよりここに介在してくる物部氏という豪族は古代の王権にとって常に特異な存在といえる。
軍事を司り、北部九州の出自を持つ石上物部氏に、ここであえて厄介な遺物七支刀を委ねたということではないか。・・・・・・

七支刀の宝刀は大和に持ち去られても、九州の物部の根拠地だったこの地にひっそりと九州王朝の事跡が継承されていて、「こうやの宮」の神像として現代まで伝えられてきたということではないか。
その結果、宝刀を手にした武人像だけが元の筑後の地に残されていたとするとより辻褄が合うように思える。
ここ太神が、古代の海人族と物部の関係が深いことも考慮すれば、この武人像が物部氏族の棟梁である可能性は高いといえる。
古代九州では古来より物部は軍事を司り、王権を補佐する立場にあったわけで、その物部の根拠地の太神にこの像が祭られていていたのではないか。
想像たくましくすれば、当時の九州王朝より物部氏が軍事的な功績を認められて上で、この七支刀をこの地で下賜されたか託されていた可能性もあるわけだ。
その場合とて、物部氏は倒された旧王朝の記念物は秘匿されたまま表へは出せなかったことになる。

実はこの七支刀を持つ武人像が「こうやの宮」の主神ではない。
ここでは七支刀に注目が集まるところであるが、それ以上にここでは主神像に注目しなければならない。
太神の「こうやの宮」には5体の神像が安置されていて、その中に武人像よりさらに大きい男性像が別にある。
ここでは唯一の坐像であり、胸に五七の桐の紋がはっきりと描かれているものである。
足元の台座(敷物)が二重になっていて、他の像より1段上に置かれている。ここでは、もっとも威厳を備えた神像ということになる。
後世、大和王権のもとでも鎌倉期前後よりこうした紋章が使われるようになったが、その起源は九州王朝の方がはるかに古い。
五七の桐の紋は、古来より天皇家の菊のご紋に対して副紋といわれるものであるが、足利氏や豊臣秀吉に朝廷から賜与されたこともあって、さらに秀吉の下で戦国大名が許されて多用したことで広く知られるようになった。
磯上物部神・九州七支刀
九州では、唯一対馬の宗家がこの紋を使い始めたので領地内の神社もこれを神紋としていることが多いので混同されやすいのであるが、そうした経緯もあって桐の紋そのものは朝廷の元から一気に外部に流布されたということになる。
それ以前の権威ある古い紋章だとすると、何らかのかたちで天皇家に直接関わる人物ということになる。
ここで指摘できることは、本来この紋章そのものが九州王朝を表徴するものではなかったかということである。

ある種の王権に関わる紋章でありながら、大和の皇統と直結する紋章ではないからこそ臣下に賜与できたと考えるべきものであろう。
ここで見えてくることは、「七支刀の宝剣も五七の桐の紋も大和王朝の王統には繋がらない遺物」ということでの信憑性が高まってくる。
大和王朝からすると、すべてを破棄するには不都合がある。だから、結果的にはそれらを臣下に賜与したり下賜したというわけである。
何故にこの2つの遺物が九州王朝を表徴しているとえるのかというと、五七の桐の紋と七支刀とは、そもそも同一のモチーフをはっきりと表徴しているからである。
磯上物部神・九州七支刀しかもデザイン構成自体、まったく同じものであることに気付かされる。
こうやの宮の七支刀といっても、これは刀というよりは見た目には何かの植物の枝にも見える。(実際は1本破損して欠けている)

しかもその長さでいうと、手にした状態で胸までの高さしかない。これだけでも刀剣には見えない。まるで小さな苗木か薬草でも手にしているように見えてくるわけである
桐の紋章と七支刀とは、王権と祭祀権を合わせもった表徴物としての形が見事に符合してくる。
紋章や祭器のデザインを調べていくと、その発祥の歴史は相当に古く、その多くは海外より渡来したものが少なくない。

このこと一つをとっても、古代九州王朝の成り立ちと海外との文化的交流の様相が窺えるのであるが、ここは手始めに七支刀と五七の桐の紋とが同じものと言うことの謎解きが必要であろう。
まず7個の実、もしくは花のがくが真ん中にある桐の紋は、九州王朝の紋章であったと考える。
そもそも九州王朝の王家の紋章が周辺諸国に広く知られていたからこそ、百済の太子はその友好の品として、王家の紋章を模した七支刀を贈ってきたのではないのか。
宝物として、唐突に手の込んだ七支刀をわざわざ贈ってくる必然性というものを考えなくてはならないところである。
九州王朝の表徴を宝剣として贈られれば、受け取る側は大層喜んだはずである。
それこそ贈る側の外交的儀礼としての誠意が伝わるであろう。
大和朝廷にしてみれば、もとより九州王朝を表徴する七支刀という宝物を手にしてもそのまま宝庫に納めることも出来ずに持て余したのではないか。

大和朝廷側の王統に繋がる本物の歴史的記念物であるならば、忘れ去られるどころか宮中か正倉院に宝物として大事に保管されていて当然であろう。
しかし、朝廷の外に持ち出されたということは、現実にはそうではなかったということの顕われである。

結果的には、武門の系譜であった石上物部氏にただの鉄剣として七支刀の保管を委ねたということではないか。
由来がどうあれ、当初石上物部氏側もこれを宝剣としては扱ってはいなかったと取れる複雑な背景があって、それが発見までの経緯に隠されていたようである。

ここで問題となる五七の桐の紋の本来の形であるが、拡大すると右のような複雑なデザインである。
注目すべき部分は、中心部分の花の描き方である。
この部分だけを拡大すると、7つの花弁によって構成されていることがわかる。
つまり7つの枝状に突出した形ではっきりと描かれていることが見て取れる。
この部分はまさしく七支刀と同一のデザイン構成になっている。
さらに、何故にこのようなデザインが取り込まれているのかを考えなくてはならないところである。
磯上物部神・九州七支刀磯上物部神・九州七支刀先に、このデザイン自体は海外から渡来したと表明したが、これに関しては少なくとも海洋民族を主体として台頭したであろう古代九州王朝の実体を追及していく必要がある。
古代九州王朝は、明らかに海洋民族と渡来部族(物部氏族)との交流の中から派生したとみるべきだと考える。
そこに、七支刀に代表されるある種の伝統的な共有できるデザインが取り入れられていったのではないか。
七つの枝を持ち、そのものが祭祀権(王権)を表徴するものとしてオリエント、西アジアから発祥し、それも古代イスラエルのメノラー(Menorah・七枝の燭台)のように祭祀性の色濃いものから古代中国の「生命の樹」というように連綿とした繋がりがある表徴物でもある。
つまりこの九州王朝が成立した時代には、海のシルクロードを行き来していた海洋民族(海人族)によって、東アジア一体にまでそうした文化的祭祀的影響が伝播していた可能性も十分覗えるわけである。

磯上物部神・九州七支刀・Menorah(七枝の燭台) 「生命の樹」の表徴は現代の日本人には余り知られていない祭器のデザイン様式であるが、この独特の形状は古来より西アジア全域に広く知られていた。
形状だけを見れば、七支刀とメノラーは非常に類似した王権の象徴物ということができる。
以下、「旧約聖書」に書かれたメノラーの燭台の具体的形状についての解説部分を紹介する。



磯上物部神・九州七支刀「また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱とがくと節と花弁がなければならない。(生命の樹の枝を表しているという)
六つの枝をその脇から、すなわち燭台の三つの枝を一方の脇から、燭台の他の三つの枝を他の脇から出す。
それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下にひとつの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。
純金1タラント(1.5キログラム)で燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。」 (「旧約聖書」出エジプト記26・31~40)


西アジア地域での王権を表徴するメノラーの形が、一つの宝飾デザインとして二千年以前に定着していた事実は多くの遺物が証明している。
それが古代九州の地まで伝わっていたとすると、古代の海のシルクロードを介して東アジア沿岸の海洋海人部族にもそれらの表徴が知られていった可能性も否めなくなってくるのではないか。
それが事実とすれば、壮大な古代のロマンと共にわが九州王朝の存在は輝いて見えるのではないだろうか
さらにこの天皇家の菊と五七の桐の紋章は、それぞれ表裏一体をなすものである。つまり表裏一対ということなのである。
このこと自体には、九州王朝に関わる重要な意味が込められているのであるが、機会があったら別の稿で詳しく紹介したい。
面白いことに、この二つのデザインの表徴する意味は後世ヨーロッパに伝わりフランスのコイン(1680年)の表裏のデザインになっている。
どういう経緯があって皇室の紋章がコインのデザインになったのか不明だが、当時のヨーロッパ人には表裏一体のシンプルな表徴がそれなりに理解されていたのだろう。
まったく不思議と言わざるを得ないところである。
ところがヨーロッパにこうした表徴が伝わってはいるのだが、その筋の専門家もデザインの出典も日本の皇室の紋章についてさえもご存知ではないらしく、現代ではその意味するところはすっかり忘れ去られてしまっていることは非常に残念なことである。
UFOが天空に浮いているようなコインの表にある図柄は、まさしく16花弁の菊の紋章である。
菊の紋章はもともと太陽を象徴しているのだが、ここでは実にヨーロッパ風な洗練されたデザインでになっている。
雲の間から覗く太陽の光ということで、これは旧約聖書に出てくるヤコブの梯子(天使の梯子)と重ねてみることができる。
裏の植物は、7つのガクを持つ花のある植物、桐かおそらく西洋でいうアーモンドの樹の図柄である。
前述したように、これが西洋文化圏でいわゆる「生命の樹」として知られているものである。まさしくヤコブの梯子=生命の樹の祭祀的表徴なのだ。
こうみてくると、奇しくも古代九州に現れた「七枝刀」のモチーフとまったく同じであることがはっきりと見て取れるわけである。

(2005/6/26・資料)

磯上物部神・九州七支刀磯上物部神・九州七支刀













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