「こころの休憩室」


九州歴史発見シリーズ
九州から本能寺の変を考える(4)


東洋医学史研 究会
宇田明男



●イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは
もとより織田信長は、戦国時代にあって圧倒的な鉄砲装備による軍事力を誇っていたことで知られる。
この当時信長自身が逸早く新兵器の鉄砲に注目したことがその理由として挙げられるであろうが、ただそれだけで大量の鉄砲が一気に揃うわけではない。

九州歴史発見館、織田信長
現代では戦国武将信長を中心に据えた歴史観に多くの注目が集まっているだけで、この当時のイエズス会の日本戦略には感知せず、それらをまったく無視してしまっているのに等しい。
イエズス会の存在を抜きにしては信長の天下布武の野望も大戦略も成り立たないのである。
これは当初より信長が宣教事業の大きな後ろ盾になる大名としてイエズス会の宣教師らに目され、特別な戦略上の情報や軍事的支援を受けていたからに他ならない。

好都合なことにイエズス会は元はといえば創始者のイグナチオ・デ・ロヨラや宣教師のフランシスコ・カブラルも軍人であって、その教会も軍隊組織を踏襲するなど西洋の軍事情報にも精通していた。
新兵器鉄砲の本格的な導入と共に、焔硝(硝石)の集積地・堺を戦略的に抑えることの重要性を示唆したのも彼らであった。
信長は南蛮人から戦争経済の様相と効率的な矢銭(軍事費)の調達方法についても知識を得たのである。
実際にイエズス会宣教師と接触した信長は、一箇月間に渡って彼らから西洋事情や軍事情報を集中的に教授されている。(フロイス日本史)

ある意味、イエズス会が信長に対して軍事顧問団ともいうべき働きをしていたということになる。
これは直接の経済的援助以上のものであって、戦略的にも大きな成果を信長にもたらしたものといえよう。
経済規模の貧弱な九州の大名と違って、結果的に信長はその権威と同様に大きな経済力を備えるに至ったことから、宣教師らもその庇護を受けるために信長に対してはまったく違った対応をとったわけである。

一方の信長も己の天下布武の大きな野望の達成には、イエズス会宣教師からの情報が不可欠であることに逸早く気付いていたわけで、抜け目なく彼らを最大限活用して見せたのである。


元亀2年9月12日(1571年9月30日)に行われた比叡山焼き討ちでは、信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたといい、その犠牲者数は「信長公記」には数千の死者、ルイス・フロイスの書簡には約1500名の死者とあり、さらに「言継卿記」によると非戦闘員の男女、子供を含めて3,4千人が殺戮されていたと記されている。

天正2年(1574)7月13日、信長は、伊勢長島一向宗を包囲し追い詰めていた。
一向宗側は9月29日にわび状をよこしたが、それを無視して中江城、屋長島城を四方から火をつけ、籠城した2万人の男女をすべて焼き殺した。
さらに天正5年(1577年)、石山本願寺を支援する鉄砲集団雑賀衆の本拠地である秋葉山を十万の大軍勢で急襲したが、織田方の兵士は町に乱入放火すると共に非戦闘員である女子供を始め住民1万人をなで斬りにして惨殺した。
その数年後に信長が手掛けた天正伊賀の乱でも同様であるが、彼の戦闘形態は大規模な軍団を投入して敵方の老若男女の住民すべてを容赦無くなで斬りし、火攻めで滅ぼしたのであった。
これらの大虐殺は徹底した宗教弾圧にも等しかった。

イエズス会からみれば、犠牲者の多くは忌まわしい異教徒らであったから、その伽藍共々住居も焼き払うという火炙り同然の見事な信長軍の掃討作戦には大いに共感したことであろう。
同時に宣教師等からは、ことのほか信長が強大で頼もしい類稀な王侯貴族にみえたことであろう。
その勇猛果敢さは、かっての教皇アレキサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)をも彷彿とさせたことであろう。


事実イエズス会の宣教師は、こうした信長の果敢な軍事行動を見て「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である。」(イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡)、とまで言い切っている。

彼らは心震える想いで、ここではまさに最大級の賛辞を信長に贈っているわけである。
イエズス会は信長の行動を賞賛するだけでなく、積極的に接近すると同時に軍事的にも彼を援護する戦略を一時期とったのである。
信長の勢力が増大していくことは、旧来の宗教勢力を弾圧するなど彼らの宣教事業を進める上でも好都合なことと考えたわけだ。

信長は形式的な因習や旧来の宗教的欺瞞を極度に嫌い、斬新さと革新的発想をもって登場した戦国の覇者の筆頭に立っていたのであった。
西洋史観の浸透した現代の日本人から見ても、こうした非情冷酷な戦国武将の代表格として、信長は大いに人気を集めているのも無理からぬところではあろう。
それこそ、当時の日本では西洋人らの評価とは逆に信長の冷酷で破天荒な行動そのものは相当に衝撃的なものとして、既成勢力からは警戒心を持って受け取られていたわけである。(拙論:「戦国九州の奴隷貿易の真相に迫る」より引用)




●何故光秀は信長に反逆したのか

光秀が信長に仕えたのは、信長という武将の戦略に同調したからに他ならない。
戦国の武将として着実に足元を固めていく信長という男に光秀は己のすべてを掛けたのである。
光秀は新参者であったが、その才知を早くに信長に認められ織田の家臣団の中でも優遇された地位と処遇とを与えられていた。

この事件について考える上での参考になる記録がある。
それは本能寺の変を報告したイエズス会のルイス・フロイスの「日本史」である。
ルイス・フロイスは独自の情報ネットワークを駆使して信長と光秀の周辺の情報を収集し、事件記者さながらにその顛末を詳細に記述している。
おそらく事件の報告書としては、この時点ではもっとも客観的な見方をしているのかもしれない。

それもこの時期になると、当初好意的な評価を下していたイエズス会の信長に対するそれは敵意に満ちたものに変わってきている。
その容赦のない手厳しい描写が、むしろここでは信長と光秀の微妙な関係をしっかりと浮かび上がらせているといえるであろう。


「(光秀は)誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関していかさかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らは(そうでないと装う)必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」(中略)

「(光秀は)殿内にあっては余所者(よそもの)であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な起用さを身に備えていた」

「信長がきわめて稀に見る優秀な人物であり,非凡の著名な司令官として,大い なる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない」

「傲慢さと 過信においても信長に劣らぬ者になることを欲した明智も,自らの素質を忘れたために,不遇で悲しむべき運命をたどることになった」 (フロイス・日本史3)
とある。


いうなれば光秀は信長にとって寵臣とも呼べる立場にあったわけで、旧来の家臣たちよりもより大きな信頼を得ていたことになる。
それだけ当時の信長のとった外交戦略と軍事的展開とにおいて光秀は優れた力量を発揮していたことを意味する。

それは信長の推し進めた朝廷工作で大いに実力を示したし、織田家の台頭と共に天下布武実現への確かな足固めに繋がっていくものであった。
少なくとも信長の気宇壮大な戦略に呼応できるような有能な家臣は、当時の織田家家臣団の中では光秀がその筆頭であったことであろう。
信長の戦略の全貌を光秀はほぼ掴んでいたはずであるし、多分に彼の軍事戦略的な知恵も度々生かされていたと思われる。


それでも光秀は内心信長という大名に疑心を抱き始めるのである。
いやここは単なる疑心ではなく信長へ対する忠義心そのものが失われていったと言い換えるべきかもしれない。
主従関係の根幹が崩れるわけであるから、これは光秀にとっても武士としてのそれ相応な覚悟があったことになる。
本能寺勃発の直前まで光秀は織田家軍団の中枢部にいたが、この間に彼は密かに反逆の機会を窺っていた。
これは独り光秀の胸中に隠されていたはずである。
猜疑心の強い信長の下では徒党を組んでの謀叛はまずもって無理である。
信長の厳しい監視の下ではあくまでも単独で推し進めるしかなかったはずである。


●何が引き金となったのか
光秀は幼少時より、武辺の者として格式の高い素養を身につけるべく育てられてきていたに違いあるまい。
彼の青年期までの経歴ははっきりとしはしないが、各地で勤めて武人として修練を積んできていた。
それは光秀が、清和源氏の流れをくむ土岐氏の出自を持つことからも容易に理解されるところである。

こうした素養は力のある主家に仕えるときの武士としての基本ではあったが、光秀はこの点において身に付けた武芸は秀逸であった。
いうなれば、それは光秀自信が武門の正道にこそ最大の価値観をもっていたことをも意味する。
光秀が、武士としての矜持を誰よりも意識していたということに他ならない。
これは生涯にわたって変えることの出来ない、絶対的な武士道に基づいた彼自身の生き方である。


この時代に武士の間で尊重され、深く浸透していたのが義に対する考え方である。

その武士とってもっとも厳格な徳目とされる「義」の精神が、その教養として光秀には幼少時より身につけていたことは確かであろう。
戦国時代に敵対関係にありながら敵に塩を贈ったとする越後の上杉謙信と武田信玄の有名な逸話にしても、この武士道としての義の概念は実際に確立していたはずである。
当然、武士の間では大義や道義、節義、忠義、信義、はては恩義だとか律義といったことが盛んに議論された。


これらの徳目に適った働きをした者が賞賛され、後世までも名を残すことが出来ることを武門の誉れとした。
戦の中にあって生きながらえること、家名を残すことは必須とされても、武士である以上己の名誉を最優先して最後まで守ろうとした者もいたことであろう。
とはいえ、こうした武士の行動原理としての美学をどこまで受け入れるかどうかについては、多くの場合相対的な評価がされたことは否めないであろう。


さらに言えば、洗練された素養があってはじめて理解される部分もあったはずである。
それらを主従関係の中で不合理な心情として処理するか、高く評価して賞賛するかどうかは相当な開きがあったということになる。
光秀が信長に対して最後まで譲れなかった、または受け入れられなかった部分があったとするならば、おそらくこの不合理な徳目においての見解の相違が生じたときであろうと考える。


信長は謀叛、裏切り行為という不義を極端に嫌ったが、彼自身が武士が守るべき徳目のどれほどの関心を抱いていたのかは容易には判別が付かないであろう。

敵に対する容赦のない掃討作戦では老若男女の非戦闘員さえもなで斬りにしたわけだし、その暴虐性には多くの者が慄いたはずである。
信長の戦略の過程では多分にこの独断的不条理性がみられるわけで、敵に対する過剰な憎しみはその残虐性として発現される。
それらは信長への恐怖心に繋がるわけで、敵に限らずその過酷な仕置きや非情さはあまねく周辺諸国にまで伝わっていたことになる。
そうした非情な命令を直接受けて、光秀という武将はことごとく実行処理して見せた。

戦闘時の光秀の果敢な処理能力を知るたびに、信長自身は十分に満足していたことであろう。


光秀は当初越前国の朝倉義景に仕えたというが、永禄12年(1569年)頃には織田信長の下に仕えていたとされる。
しかしその後の信長の下での戦乱そのものは過酷なものばかりであった。
光秀は比叡山焼き討ち(1571年)での武功で近江国の滋賀郡(約5万石)を与えられる。
朝倉義景や浅井長政を滅ぼした時の信長方の残忍な手法(1573年)はつとに有名である。

石山本願寺(高屋城の戦い、天王寺の戦い)にも参戦した。
信長に背いた荒木村重を攻めて荒木一族の家臣・女子供まで火責めで大量殺戮する(1579年)。
光秀は丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、苦戦しながらも天正7年(1579年)までにこれを平定してみせた。
このあとにも長島一揆の数万大量虐殺(1580年)や越前一揆の4万人大量虐殺(1582年)が続くのである。


この稿続く





(注:1)


参考資料:
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇Ⅰ「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編Ⅱ「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇Ⅲ「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
戦国群雄伝 信長 秀吉 毛利 世界文化社 1996年
戦国京都・王城の地150年の英雄たち 1994年 学研
「戦国武将の参謀と異形の頭脳集団」 歴史と旅  秋田書店 1999年
「徳川創世記 家康・秀忠・家光の野望」歴史読本 1998年
「戦国武将一〇四傑」 別冊歴史読本94 新人物往来社 1998年
「秀吉天下人への道」 歴史読本 新人物往来社  1995年
歴史群像 明智光秀の野望 1992年12月号 学研
日本史史料集 笹山晴生 五味文彦 吉田伸之 鳥海靖 山川出版社 1994
日本史用語集 全国歴史教育研究協議会編 山川出版社 1994
図説日本史 啓隆社 1999
裏千家茶道のおしえ 千宗室(著) 日本放送出版 1979
「堺」豊田武(著) 至文堂 1957
「戦国武将ものしり事典」 奈良本達也監修 初版主婦と生活社  1993
戦国史新聞・乱世をスクープ! 戦国史新聞編纂委員会編 日本文芸社
「不思議日本史・歴史のウラが見えてくる」 南條範夫監修 主婦と生活社 1988 
信長と家康: 清須同盟の実体 (学研新書)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
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大航海時代叢書〈第11〉日本王国記・日欧文化比較 アビラ・ヒロン (著), ルイス・フロイス (著) 岩波書店 1965

 







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