「こころの休憩室」


九州歴史発見シリーズ
九州から本能寺の変を考える(3)


東洋医学史研究会
宇田明男






●信長は家康の暗殺を企んでいたのか

この事件直前に、信長には徳川家康を暗殺する企みがあったという記録がある。
それは本能寺の変を報告したイエズス会のルイス・フロイスの「日本史」である。
「(明智光秀軍の)兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝(いぶか)り始めおそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。…」(中公文庫「完訳フロイス日本史3」p.147) とある。
戦闘に従軍した明智の家臣がそうした感想を持ち得たということは、信長周辺でも当然ひとつの策略としてあったことは否めないであろう。
少なくとも家康は織田家の義弟、もしくは盟友としての認識はあったはずであるから、明智勢のとっさの判断そのものは非常に興味深い。


本能寺の変 敵将を領内に招き入れての毒殺や暗殺は戦国の世では当たり前の卑劣な策謀ではあったが、このときの家康は少なくとも信長にとっては敵対する勢力ではなかった。
ただ戦国時代にあっては、いかに味方勢力であろうといずれどこかで排除しておくべき油断のできない武将の一人として家康が見られていた可能性だけは否定できないであろう。
このときの信長にそうした企みを決断するだけの軍事的な余力があったかどうか疑わしいところである。
というのは信長がそうした策略をもっていたとしても当時の織田軍団の多方面展開をみたとき、ここで新たに戦線をさらに拡大していく状況ではなかったからである。
本来戦力の分散は出来るだけ避けるのが兵法上の定法のはずであった。
家康もそうした織田軍団の大掛かりな多方面展開という戦闘状況を事前に察知していたからこそ、この時期に合わせて信長の下を訪れたのだともいえよう。


事実家康一行は少人数であり護衛の兵員も付けてはいなかったわけだから彼らの戦闘力は限られていた。
家康に随行していた供廻衆は、以下の僅か34名であったとされる。
本多忠勝、井伊直政、榊原康政、酒井忠次、石川数正、本多正盛、石川康通、菅沼定政、服部正成、高木広正、大久保忠隣、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、酒井重勝、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、多田三吉、花井吉高、鳥居おます、菅沼定利、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、永井直勝、三浦おかめ、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、青木長三郎らである。
徳川四天王や重臣が揃っているとはいえもし信長がここで家康主従を本気になって狙うのであれば、それこそほんの一撃で仕留められる状況であった。
家康にしてみれば信長の懐に飛び込んだ以上、信長に己の命を預けたも同然の心境であったことであろう。
当然のことであるが、当時はそれだけの緊張感が常に漂う戦国の世であったはずである。


そこで信長の立ち位置というものをもう一度考えて見なくてはならない。
信長にとってここで家康を倒すことがいかに容易であろうとも、いみじくも天下布武の大儀を掲げておきながら自らその武門の名を汚すような姑息な策略を弄してまで家康を弑することができるのかということである。
それも長年に渡って信長の戦略を助けてきた盟友ともいうべき武将である律儀な家康に対して、それは余りにも理不尽過ぎる所業といえるであろう。
己に向けられた裏切り行為そのものを極端に嫌ってきた信長が、家康のような義理堅い相手を謀る行為をここでとることができるのかどうかは興味深いところである。
信長という武将は武門での正義や武勇を尊び、それを誰よりも正当に評価して憚らなかった。
少なくとも、信長の内面にはそうした戦国の武将としての洗練された気風と美学とがあったはずである。
もしここで仮に信長にそうした姑息極まりない卑劣な手段を採らせるというのであれば、家康にそれ相応の不手際か謀叛の事実がなくてはならなかったであろう。
そうした事実があれば、親兄弟でも手に掛ける非情な時代背景は厳然として存在しただけに、信長の場合とて非情さを凌駕するだけの明確な大義名分が問われてくるはずである。
この時点で家康に信長の怒りや不信を買うような落ち度は無かったのは確かである。
そのように考えると、それまで織田家に従順に従い盟友として幾度もの命懸けの武功を上げている家康をここで一方的に排除してしまうことは、信長の武将としての姿勢からは大きく外れてしまうことになろう。
そこまで信長自身が卑劣になれるかどうかである。
何にもましていまだ天下統一に至っていない状況下では、むしろここでは盟友家康を失うことの方がはるかに前途多難な状況を惹起してしまう危険性があったと考えるべきではないだろうか。


同時にもしてここで家康を倒すことになれば、当然のこととして信長は留守居として控えている家康の子息や屈強な三河軍団を相手にして新たに戦端を開き対峙しなくてはならない事態をも招くことになる。
少なくとも織田家の勢力圏内での何らかの襲撃事件で家康の命が奪われるような状況が出来したとすれば、これは即信長側の策謀と見なされるはずである。
そうした展開はどうみても避けることはできないであろう。
最悪の場合には、徳川方は上杉や北条勢とも組んで後方から執拗に信長に挑みかかってくることも想定しておかなくてはならないことになる。
ここでどうしても家康暗殺を考えるというのであれば当然のことであるが、こうした徳川側の反撃にすぐさま対応できるかどうかといったこの時点での織田軍団の拡大しつつある戦端とその戦略そのものがまず最初に問われてくる。
織田側が何らかの陰謀をここで徳川に仕掛けるのであれば、それに即応して新たに投入できるそれ相応の兵力が織田側になくてはならないことになる。
この時点での信長陣営にそれだけの軍事的余裕があったであろうか。


織田家軍団の多方面同時展開の戦略はそれを支える兵站輸送や支援体制が確保されて始めて実行できるものである。
一旦それらの戦線のいずれかが破られれば、そこには新たな増援部隊の派遣も必要になってくる。
結局のところ中国の毛利や四国の長宗我部との本格的な戦線が一気に拡大されていく状況下で、信長がそこまでの軍事的展開をこのとき覚悟していたのかということに帰結するはずである。
そのように考えると織田の家中に家康暗殺の企みがあって、たとえそれが即刻実行可能であるとしてもそれ自体は信長にとっては非常にリスクの大きなものになるという認識に立たざるを得ない。
むしろここで家康を暗殺することは信長の戦略を躓かせる危険極まりない策謀でしかないということになる。


戦国時代にあっては、相互の儀礼においても緊張した状況での気配りがなされるのが通例であった。
徳川側は主君家康を送り出すと同時に家内は臨戦態勢をとったと解すべきであって、それこそ武家として当然の対応であったはずである。
家康が信長の招きに応じたということは、事前にそれなりの準備と覚悟をしていたということになる。
家康にしてみれば戦国の世である以上いつ命を狙われてもおかしくはなかったであろうし、その覚悟があることは武人として当然のことであった。
それに対して織田側ではその勢力下にある非武装地帯の堺周辺部ではそれなりの警戒態勢がとられていて、家康一行の安全は十分に保障されていたと見なくてはならない。
今回の供応が信長の家康に対する明確な返礼である以上、これを覆してまでして家康を誅す策略は見苦しいことこの上ない。
ましてや相手の馳走にはそれ相応の馳走を返すのが、本来の武家の習いというものである。
5月15日から翌月の6月1日までのあいだ家康一行には何ら旅程に支障はなかった。
安土城から京見物に出立した家康一行の予定では、見物先の堺より再び京都に戻り中国方面へ出陣する信長に会う手はずであったという。
信長は5月29日にわずかな供廻り衆とともに安土城を出立している。
同じく光秀の居城坂本城からはまず5月29日に鉄砲弾薬や長持ちが中国方面に送り出されている。
これも中国進軍の予定通りの行動である。


すでに備中高松城は秀吉の働きで落城間近であった。
秀吉自身はそこまでの戦略的仕上げをして、十分に足元を固めたところで主君信長へ出陣要請をしたことになる。
信長はまず京において大茶会を催す予定であって、安土城より数多くの大名物の茶道具を本能寺に運び込んでいた。
高松城の詳細な戦況そのものは信長にも伝わっていたことから、少なくとも信長には兵を整えるまでの間に十分な余裕があったからこそ、大名物を携えて京で茶会を催そうとしたわけである。
6月1日には大名物の披露ということで多くの公卿や商人を本能寺に招いており、2日以降に計画された茶会に信長は家康を招いていたことになる。
こうした信長の日程のもちろん織田方の布陣を京周辺の軍事を統括する光秀がすべて掌握していたことは言うまでもない。
さらに穿った見方をすれば、信長周辺の護衛体勢の空白についても光秀が意図的に何らかの工作を企てていた可能性はあるであろう。


このとき信長にとって見過ごすことの出来ない一つの予定があった。
信長と茶道といえば「御茶湯御政道」と「名物狩り」がつとに知られているが、茶道具に執心していた信長はかねてより九州博多の豪商島井宗室に自分が所有する名物を披露するという約束があった。
この時代天下の三大名器として『初花』『新田』『楢柴』という3つの茶入れがあったが、すでに信長はこのうち二つ『初花』と『新田』を手に入れていた。
島井宗室はあと一つの名器『楢柴肩衝』を所有しており、今回それを持参してきていたのである。
奇しくもここに天下の三大名物が一同に揃うという信長好みの趣向が、このとき本能寺において実現していたことになる。
本能寺の変 ここでもっとも注目すべきことは、この天下の名物茶器『楢柴肩衝』が島井宗室から信長の手に渡される手はずが本能寺で順次整えられつつあったことだ。
事件前日の6月1日、本能寺には博多商人の島井宗室と神屋宗湛が主客として招かれ、それに前関白近衛前久ら公卿衆が加わった席でこれらの名物が本能寺書院において披露されたのである。
天下を掌握しつつある信長にとって、この催しこそ得意絶頂の瞬間であってこのときの信長は終始上機嫌であったという。
ここで登場する『楢柴肩衝』という名物の由来がわかれば、このときの信長の喜びようがいかに大きなものであったかが理解できよう。


『楢柴肩衝』は、もともとは足利義政が所有していた名物茶器であった。
それがのちに義政の茶道の師匠である村田珠光に下賜されて、さらに珠光から弟子の鳥居引拙を経て京都の豪商・大文字屋の疋田宗観が買い取った。
これがさらに堺の豪商天王寺屋宗伯の手に渡っていたが、宗伯の弟子で堺と交易していた博多の豪商神谷宗白が1千貫の高値で手に入れたとされる。
宗白は『楢柴肩衝』を買い取ったのち家業の経営に失敗してしまう。
経済的に行き詰まった宗白は仕方なくこれを手放すこととなり、同じ博多の豪商島井宗室に2千貫で買い取ってもらっていた。
当時の2千貫目といえばとてつもない巨額な値である。
優に現代の十数億円程度には換算できるのではないか。


信長はかねてよりこの有名な名物の行方を捜していたが、意外にも堺から遠く離れた九州の豪商の手に渡っていたことを知る。
そこでどうにかして島井宗室から『楢柴肩衝』を入手しようと、堺の商人らにその交渉を仲介させていたのである。
信長と宗室との間でも書状の遣り取りがあった。
このときの島井宗室にとって、信長との繋がりを持つことは悪い話ではなかった。
島井宗室のような対外的な交易を家業とする貿易商は、何らかの形で時の権力者との関係を深めていた。
彼らの権益を確保するためにも権力者による保護を必要としていた。
それまで島井宗室の交易と権益の後ろ盾であった九州の大名大友家は島津の侵略に脅かされていたこともあり、宗室自身も新たに強力な庇護者をこのとき必要としていた。
そこで宗室は国内を掌握しつつあった信長の権勢に頼ることを決断して、本能寺を訪れて今後の庇護を条件に名物『楢柴肩衝』を信長に譲る心づもりでいたのであった。
その約定があって、島井宗室らはその日時に合わせて九州博多から堺を経由してこの日は京に上ってきていたのだ。
『フロイスの日本史』にいう。
「信長は元来慾深く物を惜しむ人で、誰かが名物を持っていると聞けば、人を遣わしこれを求め、それを断ることは不可能であった。所持者は免れることは出来ないと考え、求めを待たずに進物とした。そうしておけば信長がいくぶんかの義理を感じてくれるからであった」と。
このように名物を介しての強引な要求は、かえって信長の権勢の強大さをますます天下に示していったというべきであろう。


信長は三大名物のすべてが己の手元に一同に集まることに、その富と権勢とを天下に示す絶好の機会を得たわけで、このときばかりは茶道の好奇者としてそれこそ有頂天であったということになる。
もとより島井宗室との約束の日時と中国出陣の日程調整において、今回本能寺で催される大茶会の趣向が一瞬ではあるがこのとき上洛した信長の身辺に隙が出来たことになる。
信長の護衛にはわずか2,30人の供廻り衆だけが従ってきただけで、本能寺には警護の旗本は張り付いてはいなかった。
信長の出陣を前にして大方の常備兵はその準備に走り回っていたということになる。
このことがまさしく信長の足元を掬ったわけで、茶道趣味が嵩じてついには自ら墓穴を掘ってしまったということになる。
アビラ・ヒロンはその著書『日本王国記』で、信長の最後の言葉としてこのとき、「余は余自ら死を招いたな」と言ったと記録している。
信長は己の油断をはっきりとここで自覚したということに他ならない。


信長の遠大な天下布武の事業はここに至ってようやく軌道に乗り出したときでもあったから、勝機を掴んだ信長に気の緩みがあったことは否めないであろう。
しかも丁度この時期、朝廷が信長の後継者である信忠に官位を推任することが決まっており、信忠はすでに信長より一足先に安土より上洛していた。
もとより信長の上洛にはこの信忠の官位を祝う意向があって、これに盟友家康にも同席を求めていたはずであり、6月2日以降にはあらためて本能寺において大茶会が催される手はずであった。
信長にとってここでは慶事としての重要な行事が着実に進められていたわけである。
数々の名物が披露されたこの日、島井宗室と神屋宗湛の二人はそのまま本能寺内に宿泊しており、まさしく彼らは翌日(6月2日)の暁の襲撃事件に心ならずも遭遇することになる。


家康一行は堺を出立した6月2日の夜、本能寺の変事を知らされる。
ここまでの流れを見る限り、家康が信長の勢力圏内で命を狙われるような緊迫した様子はなかったことになる。
しかも家康一行は地理不案内であったため、信長の家臣・長谷川秀一に終始道案内されていた。
信長側がそうした気配りを見せている以上、家康に対するこのときの厚遇そのものは至極自然であったといえる。
信長に家康暗殺の企てがあるのならば、あえて家康を逃すような行動を信長の寵臣である長谷川秀一がとるはずがないではないか。
結果的には本能寺の変後の家康逃亡劇の最後まで彼は付き従って尾張熱田まで同行したわけであるから、どうみてもここらは信長による暗殺といった話どころの展開ではないわけである。


さらには、ここでわざわざ京都におびき寄せた形で家康を本当に謀殺するとなると、これはいよいよ信長にとっては不都合な事態を招くことになる。
信長の嫡子信孝の任官と同時期に天皇や公卿衆のそば近くでの暴挙は顰蹙を買うだけでなく、そうした傍若無人な所業に対して民衆からの非難の声が高まることは避けようがあるまい。
そのような企みの後で大茶会が催されたとしても、その場の雰囲気は最悪のものになるはずである。
そこまでしても信長に家康を暗殺する決意があったかどうかもここでは問われてこよう。
少なくとも信長は茶会に招いた公家衆や大商人を前にして面目を失うだけでなく民衆の人気も一気に離れていくはずである。
意外と信長という武将は、そうした細部にも気をかけるところがある武将であった。


そこまで考えると信長に家康の暗殺は、到底実行できなかったと見るのが妥当なところではあるまいか。
とにかく中国方面への出陣を直前に控えた信長が、義弟ともいえる家康の暗殺と慶事である大茶会の催しとを同時に画策していたとするのはどうみても行き過ぎであろうと考える次第である。

(2012.09.30)





(注:1)


参考資料:
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇Ⅰ「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編Ⅱ「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇Ⅲ「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
戦国群雄伝 信長 秀吉 毛利 A4 306P 世界文化社  1996年
戦国京都・王城の地150年の英雄たち 1994年 学研
「戦国武将の参謀と異形の頭脳集団」 歴史と旅  秋田書店 1999年
「徳川創世記 家康・秀忠・家光の野望」歴史読本 1998年
「戦国武将一〇四傑」 別冊歴史読本94 新人物往来社 1998年
「秀吉天下人への道」 歴史読本 新人物往来社  1995年
信長と家康: 清須同盟の実体 (学研新書)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
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長篠の戦い (歴史新書y) 大航海時代叢書〈第11〉日本王国記・日欧文化比較 アビラ・ヒロン (著), ルイス・フロイス (著) 岩波書店 1965      







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