「こころの休憩室」


九州歴史発見シリーズ
九州から本能寺の変を考える(2)


東洋医学史研究会
宇田明男






●何故に光秀の戦略は潰えたのか
当時信長の治世を望まない者が少なからずいたことは確かであろう。
周辺諸国の大名だけでなく当時の一大勢力であった宗教界とて、信長による武力弾圧には長年激しく抵抗し続けてきていた。
信長の急速な進出によって、旧来勢力との激突が避けられない厳しい状況が広範囲に展開していたことになる。
特にそれは朝廷であり、光秀を取り巻く知識階層や当時の公卿衆の共通した反応であったと思う。
彼らの声を聞くうちに、次第に光秀の心のうちには信長を倒すという使命感が生じていったようにも思える。
そのように考えると巷に流布された主君信長に対するいくつかの怨恨だけでは、光秀の謀反に対しての武士としての名分も面目も立たないのではないかと考えている。


また同様に背後に第三者による陰謀があったというのもどうにも納得がいかないのである。
事実その不可解さと原因となる部分に光秀自らが事件後に触れていないことで、かえって多くの黒幕の存在を疑わせる理由ともなっているようにみえる。
たとえば第三者ということで、光秀がかって仕えたこともある将軍義昭を呼び戻すための謀反とも思えない。
すでにこの時期光秀は、将軍義昭に対してはそれほどの政治的期待感は持っていなかったのではないか。
もし将軍義昭を立てる意思があったのであれば、そのことをいの一番にここで宣言していたはずである。
それがこのときもっとも妥当な戦略的手順であったかもしれないのだが、事件後の対応を見る限りそれは光秀の目論見とは違っていたようである。
こうなると戦略も政略的目論見もはっきりしないままの反乱軍という位置づけになってしまうことになる。
事件に対する周囲の驚きと戸惑いは人々の迅速な動きをも押し止めたかのようである。
どうやらこのときの朝廷の動きも冷静であったし、彼の檄文に応えてはせ参じる有力な武将も限られていた。


それももっとも彼に近かった与力の細川や筒井でさえ、光秀の味方とはなり得なかった。
彼に賛同者がいたとするなら、まず有力な与力として彼らが最初に光秀の下に馳せ参じていたはずである。
この場で与力の加勢が得られないということは致命的でさえある。
ここで彼らの賛同が得られないというのであれば、一体ほかにどこの誰がこの企てに同調するというのであろうか。
彼ら武将が兵を出して自ら参戦し共同歩調をとるということは、今後の命運を共にするということである。
そこには武士として戦うだけの確かな勝算と大義名分とがなくてはなるまい。


光秀麾下の軍兵の志気は高く見事に統率が取れていたが、それは彼の軍団内での日頃の練兵の成果ともいえるものであって、他の光秀の下に置かれた与力軍団の統率者にまでは及んではいなかった。
結局、光秀は仲間や賛同者がいないままに単独で行動を起こしたということになる。
ここではむしろ単独犯であったからこそ、光秀の企てそのものはどうにか成功したともいえるわけである。


光秀の謀叛に驚きはしたものの、多くの武将が動かずにそのまま静観し続けている。
確かに光秀の謀反によって強大な織田信長という大名が一瞬にして倒されたのである。
だがこれは力あるもの同士の雌雄の決着が着いたといような明確な判断される状況とはまったく違っていた。
いうなれば事件そのものは突発的な織田家内部での反乱であって、どこまでも下克上の様相に近いものだった。
しかし当時の信長はあまりにも強大な存在であって、戦国の軍事バランスの頂点に立っていた。
いうなれば本能寺の変によってそうした国内の軍事バランスそのものが激変した。
戦国の覇者信長が倒れたことで織田陣営を中心にして一気に戦況そのものが不安定化してしまった。
織田家の各軍団は現在展開中の戦端を素早く縮小して撤退し、どこかで再度仕切り直しがされなくてはならない事態が出来したのである。


ここで信長が横死したということは対峙している敵勢力からみればこれは願ってもいない朗報であり、光秀から最大級の馳走が用意されたにも等しいものであった。
事実、当時織田家軍団と戦闘状態にあった上杉や毛利にまで光秀は親書を送ろうとしている。
敵対する勢力にまで誘いをかけた光秀の戦略上の真意はどこにあるのであろうか。
そうした不明瞭さが何故か本能寺の事件に付きまとうからこそ、かえって後世の人々の関心を惹くのかもしれない。
曖昧であればあるほど、ここにはいろいろな憶測が成り立つことになる。
この辺りは光秀の娘の婚家先である与力の細川家(12万石)へ宛てた書状にも現れていて、謀反に至った動機の曖昧さをそのまま露呈してしまっている。

細川家には光秀から何通かの書状が届けられていたと思われるが、「細川家文書」には1通だけ事件後の書状が残されている。
6月9日付の光秀から細川藤孝宛ての書状がそれである。

【光秀書状の原文】

一、御父子もとゆい御払い候由、尤も余儀なく候。
一旦我等も腹立ち候へども、思案候ほどかようにあるべきと候。
然りといへども、比上は大身をいだされ候て御入魂こひねがう所に候事。

一、国の事、内々摂州を存じあて候て、御のぼりを相待ち候つる。
但若の儀は思召寄せ候はばこれもって同前に候。指合きっと思い付くべく候事

一、我等不慮の儀存じ立ち候事、忠興など取り立て申すべきとての儀に候。
更に別条なく候。五十日・百日のうちには近国の儀相堅むべく候間、 其れ以後は十五郎与一郎殿など引き渡し申し候て、何事も存ずまじく候。
委細両人申さるべき事。
以上

六月九日
光秀(花押)(「細川家文書」より)


その書状の内容は、「味方してくれれば領地は摂津一国と、但馬・若狭を望むのであれば藤孝父子に差し上げる、この度(本能寺の変)のことは、息子(十五郎)や婿(忠興)を取り立てるのが目的であり、50日・100日の間に近国を平定し、その後は忠興や自分の嫡子明智光慶に政務をゆずって引退する」と約束したものであった。
戦国の武将は書状にくどくどとしたことは書かない。
限られた紙面に要点を絞って書き記す。
ただし「この度ことは、息子や婿を取り立てるのが目的である」とは、一体何事であろうか。
これだけで謀叛のすべてを語り尽くしているとでもいうのであろうか。
結局、細川親子は元結いを切って信長への弔意を示し静観したまま動かなかった。
これはしごく順当な細川親子の判断であったといえよう。


盟友として期待していた18万石の大和郡山城主筒井順慶の反応も同様であった。
ここらから光秀が当初目論んでいた展開が明らかに大きく狂い始める。
細川家の対応はわからないが、筒井順慶ならば納得のいく大義名分さえあれば光秀と行動を共にした可能性はあったであろうが、家の存亡に関わることとして周囲が必死に押し止めたことであろう。
事実そうした憶測がなされてくるほどに光秀の反乱は無謀なものであって、その後の勝算がまったく見えなかったのではないか。
そうした時間的な間合いが生じたことで、さらに周囲に日和見の傾向を広げていってしまったといえるであろう。


すべてがあまりにも想定しにくい展開であった。
織田家の中枢部にいた武将がいきなり反乱を起こして、新たな政略的展開を期待したとしてもそこには無理がある。
周囲の賛同を得ようとしても、孤立無援では容易に独自の立場を最後まで押し通していくことは出来まい。
やはりそうした政略的駆け引きということでは、光秀自身は事件後即応できなかったということになる。
実際には光秀による多方面にわたる政治的、外交的工作が成されていて、反乱後に文書がいくつも発信されていたのは事実であろう。


だが光秀自身が織田家の中心にいただけに、謀叛に繋がるような個別の政治的根回しといった工作は事前にとれる状況ではなかったはずである。
謀略や調略が当たり前の戦国の世にあって、そこで同調者を見つけ出すことも己の陣営に引き込むこともそう容易く出来ることではあるまい。
相手から何らかの確約を貰うことさえも難しいわけだし、人質なしには約束が守られるかどうかの保障とて危ういわけである。
大抵の場合、そうした約束事は文書で出されるわけだし、内応の確約も文書で遣り取りされるのが通例であった。
そうした文書の類がたとえあったとしても後日その多くが処分隠蔽されただろうし、事件の核心に触れる文書(日記など)は秀吉に回収され破棄されてしまっている可能性もあるわけだが、結果的にはそれらは後世に残されるほどのインパクトがあるものではなかったということにはなろう。


●光秀の戦略と誤算
下克上そのものは、主家を凌駕する力と順当な大義名分とを備えていなければ逆に潰される危険性をはらんでいる。
下克上が戦国の習いではあったとはいえ、それを最後まで強引にやり遂げるだけの力量がその者に備わっていなければ上位の者に取って代ることはそうた易く出来るものではない。
力量もそうしたカリスマ性も光秀には始めからなかったともいえるわけで、どこまでも信長の下に仕える有能な一武将でしかない。
それゆえに秀吉が喧伝工作した「主殺し」の汚名をまともに浴びて彼の企みは潰えてしまったわけだ。
大きな企みに対して個人レベルの差配や戦略だけでは所詮限界がある。
このときの光秀は孤独な戦いを仕掛けたのも同然であった。


それに対して秀吉の陣営には幾人もの優れたブレーンが背後に控えていたことは、戦略的には格段に有利であったと言わざるを得ない。
だからこそ秀吉の命令一下手足のように部下が動き回り、瞬く間にその持ち前の機動性を発揮して中国大返しをやってみせた。
その間に敵方の情報収集や情報かく乱工作だけでなく、光秀軍追討の作戦計画が短時日のうちに次々と立てられていった。
もはやこうなると光秀と秀吉両者間では、限られた時間というべきものの使われ方に大差が出てきていることになる。
すでにこのとき秀吉陣営では多くの有能な部下が走り回って総力戦を素早く仕掛けるだけの戦闘体勢を備えていた。
ここらは光秀陣営の予想をはるかに超えていた。


秀吉の目配りの確かさからいけば、彼自身前戦に身を置きながらも常に背後にいる主君信長周辺の動静を見守っていたはずである。
そうした秀吉の用心深さがあったからこそ、本能寺の異変をもっとも早く補足したのではないかと考える。
それは偶然でも何でもなく、秀吉という武将の卓越した気働きによるものである。
ここに秀吉の中国大返しの謎解きがある。
信長が出陣して来るとそれに合わせるかのように手際よく備中高松城の攻略を成し遂げ、中国の毛利に織田軍の先鋒として攻め込んでいくという戦略が秀吉の下ですでに九分どおり出来上がっていたはずである。
そうした状況で秀吉がもっとも注視していたのは、やはり出陣前の主君信長の動きである。
信長がいつこちらに向かって出陣してくるのか、そしてどれほどの陣容でいつこちらに着陣するのか。
当然秀吉の物見は信長に張り付いてその動向を終始窺っていたはずである。
最後の勝利の鴇の声を挙げるのは主君信長の下でなくてはならなかった。
そこらに手抜かりがあるような秀吉ではあるまい。
もし信長の身に何らかの異変があったとしたら、もっとも早くにその情報が伝わるのはこのときの秀吉陣営でしかない。
秀吉の戦略は計算づくである。彼は全てにわたって綿密な戦略を立てられる指揮官としての力を持っていたのである。


このときの無防備過ぎる京都での布陣さえも、目敏い秀吉なら早くに気付いていたかもしれない。
謀反とはいかないまでも、信長と光秀との緊迫した関係についても彼なりに敏感に感じ取っていた可能性さえある。
秀吉が他の誰よりも確実な織田家中の状況を把握をしていたであろうことは、ここでも十分い予想できるのではあるまいか。
秀吉はそうした常人離れした戦国の武人としての鋭敏な感覚をすでに身につけていたということである。


光秀は本能寺において信長の首級をとる心積もりであったはずであるが、本能寺の焼け跡をいくら探しても信長の遺骸は発見することができなかった。
『甫庵信長記』(小瀬甫庵)によれば「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記述されている。
これが光秀の最初の躓きであったろう。
ここではきりと決着を付けるためには、光秀にとっては是非にも信長の首級が必要だったはずである。
もともと本能寺は法華宗の武装化に不可欠の鉄砲火薬を精製し備蓄ていた拠点であったから、寺内に火薬庫があった可能性が高いわけで、床下などに火薬の原材料が飛散堆積していたとしてもおかしくはなかった状況が考えられる。
それらの備蓄火薬が湿気で多少やられていたとすると、爆発はしないまでも引火すれば激しく高温で燃焼してしまう。
もしそうであれば火災発生時の火力は猛烈な勢いであったことになる。
これだと遺骸は跡形なく骨まで灰になる。
その後も光秀の軍勢は探索を続け、京都市中で集中的に落ち武者狩りを行い多数の者を殺害したとされる。


光秀側のそうした状況を秀吉がどこまで補足していたのか分らないが、心憎いまでの対応を素早く講じて見せる。
秀吉は光秀に加担しそうな中川清秀や与力衆に対して、信長が無事落ち延びたという書状をすでに事件直後の5日付けで送っており巧妙に偽情報で撹乱して先手を打ってみせた。
「上様并殿様、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。(摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状)」桑田忠親著『太閤記』(新人物往来社)


秀吉はその追討戦において、押さえるべきところを的確に押さえきったことになる。
対して光秀側は信長の遺骸を適当に用意して、周囲にはったりをかませるような機転を利かした戦略さえとれなかった。
秀吉が尼崎でにわかに坊主になって、「弔い合戦」の演出をして見せたことと比べてもその辺りの違いは歴然としている。
光秀の謀反にどれだけの勝算があっただろうか。
そこに何らかの名分があったとしても秀吉の情報戦によって、すべては薄汚い謀反人という汚名でもって片付けられたということである。
結局のところ主君の仇を奉るという秀吉の掲げた大義名分の御旗の元に軍勢が次々と集まってくることになる。
こうなると両者の決戦を前にして、すでに勝敗そのものは決していたのかもしれない。

(2012.09.27)




(注:1)


参考資料:
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇Ⅰ「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編Ⅱ「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇Ⅲ「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
戦国群雄伝 信長 秀吉 毛利 世界文化社 1996年
戦国京都・王城の地150年の英雄たち 1994年 学研
「戦国武将の参謀と異形の頭脳集団」 歴史と旅  秋田書店 1999年
「徳川創世記 家康・秀忠・家光の野望」歴史読本 1998年
「戦国武将一〇四傑」 別冊歴史読本94 新人物往来社 1998年
「秀吉天下人への道」 歴史読本 新人物往来社  1995年
歴史群像 明智光秀の野望 1992年12月号 学研
日本史史料集 笹山晴生 五味文彦 吉田伸之 鳥海靖 山川出版社 1994
日本史用語集 全国歴史教育研究協議会編 山川出版社 1994
図説日本史 啓隆社 1999
裏千家茶道のおしえ 千宗室(著) 日本放送出版 1979
「堺」豊田武(著) 至文堂 1957
「戦国武将ものしり事典」 奈良本達也監修 初版主婦と生活社  1993
戦国史新聞・乱世をスクープ! 戦国史新聞編纂委員会編 日本文芸社
「不思議日本史・歴史のウラが見えてくる」 南條範夫監修 主婦と生活社 1988 
信長と家康: 清須同盟の実体 (学研新書)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
戦国関東の覇権戦争 (歴史新書y)
信長軍の司令官―部将たちの出世競争 (中公新書)
上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)
信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反 (中公新書)
関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは? (歴史新書y)
長篠の戦い (歴史新書y)
大航海時代叢書〈第11〉日本王国記・日欧文化比較 アビラ・ヒロン (著), ルイス・フロイス (著) 岩波書店 1965






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