「こころの休憩室」


九州歴史発見シリーズ
織田信長暗殺・徳川家康暗殺計画・明智光秀の陰謀

九州歴史発見シリーズ
九州から本能寺の変を考える(1)

戦国時代に引き起こされた本能寺の変はまさに大事件であった。
その首謀者である明智光秀についてもこれまで数多くの説が立てられ論じられてきた。
九州から遠く離れた京の都において展開されたこの事件の本質と謎について、新たな挑戦を試みてみた。
本能寺の変は、その背景に九州の豪商の思惑が少なからず絡んでいた。
それが事件とどう繋がっていたのか?
このとき信長は家康の暗殺を企んでいたのか?


東洋医学史研究会
宇田明男






●はじめに
徳川家康が織田信長の招きによって、安土城を訪れたのは天正10年(1582)5月15日のことであった。
このとき家康は、信長に降った穴山梅雪を伴ってきていた。
本能寺の変「信長公、当春、東国へ御動座なされ、武田四郎勝頼・同太郎信勝、武田典厩、一類、歴/\討ち果たし、御本意を達せられ、駿河・遠江両国、家康公へ進めらる。其の御礼として、徳川家康公、并びに、穴山梅雪、今度上国候。一廉御馳走あるべきの由候て、先づ、皆道を作られ、所/\御泊/\に国持ち・郡持ち大名衆罷り出で候て、及ぶ程、結構仕り候て、御振舞仕り候へと、仰せ出だされ候ひしなり」(信長公記(桑田)


それは、永年にわたって同盟関係にあった家康に対する信長の返礼としての供応であったが、その日の安土城内は早馬による伝令が次々と駆け込んで来るような終始慌ただしい様子であった。
まさしくこのときも織田方は各方面にわたっての戦闘状態が継続中であった。
すでに織田家の重臣柴田勝家は越前へ出陣しており、丹波長秀らの軍勢は四国征伐のため大坂方面へ移動集結しつつあった。
さらに中国平定を目指して進撃していた羽柴秀吉の軍勢は、備中高松城を包囲し大がかりな水攻めの最中であった。
信長が、秀吉の援軍要請に応えいよいよ中国平定に自ら出陣することを決断していたのもこの時期と重なる。
それだけに、家康一行が訪れた際も城内には信長出陣に備えた緊迫感がそこここに漂っていたのである。


信長は事前に明智光秀に家康一行の接待役を命じていた。
光秀は中国出陣を控えながらも、15日から17日に渡って三日間家康主従を手厚くもてなしている。
家康一行は、その安土から京、大阪を経て5月29日昼過ぎには堺の市中に入っていた。
6月2日に家康は堺より再び京都に戻り、中国方面へ出陣する信長に茶会の席で再度会う予定であった。
だがその6月2日の明け方、明智光秀の軍は京都本能寺を急襲していたのである。
いわゆる本能寺の変の勃発である。


本能寺の変によって信長が倒されたことで、織田家の家臣団はもとより当時の徳川家康や毛利輝元、長宗我部元親の諸大名、そして将軍足利義昭らにとっては一様に新たな政略的展開が窺える絶好の機会がもたらされたのである。
まさしく光秀は天下に向かってある意味馳走したことになるわけで、敵味方なくチャンス到来である。
これによって誰がより有利な立場に立てるかという、戦国武将のもっとも得意とする武力による熾烈な天下盗りの戦場(いくさば)が突発的に用意されたというべき状況が出来した。


力ある者が一斉に蜂起する次なる戦国の混乱がつくりだされたも同然であった。
この引き金を引いた光秀自身に最初から周到な目論みがあったのかどうかは疑わしい。
信長を倒した後の戦略がほとんど用意されていないのがその理由である。
ここでは光秀の擁するわずか1万3千の兵力でどれほどの働きができるのかを冷静に考えてみる必要があろう。


大名に仕える一武将が天下取りをいきなり標榜したとしても、寡兵であってはその力量そのものが問われるはずである。
まず臨戦態勢で周囲を囲まれるような状況になれば、多方面展開には限界がでてこよう。
光秀の戦略では彼の勢力圏内では相当数の与力の加勢があるものとみていたし、京都周辺部の制圧も短期間に達成できるものと考えていたようだ。
当初それだけの勢力拡大を期待していたはずであるが、実際にはそう都合よく事は進まなかった。


確かに明智光秀は近江国滋賀郡(約5万石)に加えて丹波一国(約29万石)を信長から与えられ、都合34万石を領していた。
しかもその軍事的指揮権は丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶等の与力にまで及んでいたから、名目上京を含めた近畿圏の大半を光秀は軍事的に掌握していたも同然であった。
だがこれとて、背後に強大な信長の威信があってはじめて成り立つものでしかなかった。
いうなれば主従関係という絶対的な支配力を光秀自身が保持していたとはいい難い状況にあったということになる。
命令一下麾下の将兵をどれだけ動員できるか、そこにはおのずと限界があったことになる。
当時の信長が戦闘に投入する兵力は優に10万を超えていた。
これと光秀の保有する戦力を単純比較したとき、どうみても織田家軍団の一部が無謀な反乱を起こしたとしかみられない。
これで他国を切り崩していくなど到底不可能なことである。
強固な城砦や相当量の弾薬などの兵站が確保されていなければ、持久戦はもちろんのこと自ら撃って出ることもままならない。
他の織田家軍団が結束して一斉に反撃に出てくれば、光秀とてひとたまりもなく潰されることになる。


所詮天下盗りをここで標榜するには、お粗末過ぎる弱小勢力でしかないということになる。
しかも彼に論功行賞に応えられるだけの所領があったわけでもない。
こうなると光秀に加担したところで先が見えているではないか。
彼をして周到な作戦とその後の戦略があるのであれば、第二段階としてのそれなりの俊敏な展開が本能寺の直後からあって当然である。
攻めるか守るかの体勢つくりが必要であろうし、この辺りのいささか逡巡した光秀の動きが気になるところではあるまいか。
たしかに事件後には美濃や近江では平定しようと動いていて、当初より朝廷側への働きかけも試みられてはいる。
おそらくこの間光秀は必死になって密書を各方面に送っていたはずである。
それでも光秀に呼応して合流する武将はきわめて少なかったのも事実である。
光秀の誘いに対しての周囲からの反応は芳しくなく、まったく期待はずれのものであった。


早い話、光秀自身に最初から天下を狙う強かな野望があったとは思えない。
出陣直前に光秀は重臣らに企みを打ち明けたという。
「火曜日(天正10年5月29日)軍隊が城内に集った時、彼は四人の部将を招いて、密に信長とその子を殺して天下の主とならんと決心したことを告げたところ、彼等は皆驚いたが、彼がすでに決心した以上、これを援けてその目的を達するほかはないと答へた」(イエズス会日本年報(1582年追加)とある。


光秀は重臣にさえも今回の奇襲を事前には一切漏らしてはいなかった。
本能寺の変ここで初めて計画の全貌を話したことになるが、それでも肝心の信長に対する謀叛の理由が明かされたようにはみえない。
重臣らにとって、謀叛という行為に何の理屈も必要ではなかったということになる。
謀叛に至る経緯は逐一説明するまでもなく、重臣らには光秀の心情について十分に理解が及んでいたということであろう。
もはや後戻りは出来ないといった雰囲気さえある。
むしろここには無言のうちにも、光秀主従の間には何らかの想いを共有していた可能性さえ感じられるところである。
それ自体が光秀の家臣への布石といえば布石といえるであろうし、そうした強固な結束で主従関係が保たれていたことは疑いようのない事実ではあろう。


本能寺の変は突発的な事件だけに、どこまでそうした布石が事前に敷かれていたかの疑問は残る。
ただ光秀は織田家の戦列の外にあって、いつでも出撃できる遊撃隊(遊軍)の体勢で待機していたことを考えれば臨機応変にここでも迅速に作戦展開できたことは間違いあるまい。
瞬時の機動力は相当な修練があったことになる。
眼前の本能寺襲撃だけに絞るのであれば用意周到な作戦計画であったといえるであろうが、その後の戦略上の展開に綿密な工夫がなかったことは力不足であったとしかいえない。
おそらく光秀の決断そのものは謀反直前(4,5日間)であったことであろう。
決行に至るまでの期間はそれほど長いものではなかったであろうし、事前に根回しをするような余裕があったとも思えない。
ここで光秀が何らかの覇権を狙っていたと考えるのであれば、おそらく信長を排除した後で多くの有力な同調者を集め、その中から盟主を立てる心積もりであったのかも知れない。
信長の側に仕えていた以上、光秀にそうした独自の新しい政治的構想があったとしても不思議ではなかった。
しかし現実にはそこまでの体勢を固めるだけの条件が揃うような好都合な展開とはならなかった。


事件直後においてさえ、光秀自身の謀反に対する強力な弁明そのものを周囲に喧伝していくような工作もなされなかった。
当然ここに至っても光秀の謀反の真意は明かされることは無かったのである。
逆に秀吉による巧みな情報戦に翻弄され、劇的な本能寺の変はそのまま戦国のありふれた謀反劇で終わってしまうのである。


政権が簒奪されれば、事実関係はすべて勝者の都合のいいように改ざんされるものである。
この事件後、どこまで秀吉陣営による情報の隠蔽や改ざん操作がなされたのかは分らないが、やはり光秀側の襲撃直後の喧伝工作が気になるところである。
どうやらここに至ってさえも、光秀自身は主君信長への謀叛の理由を何にも披瀝してはいないのである。
むしろ主殺しの事実に対して臆することなく、いの一番にその首謀者として周囲の悪評を蹴散らしてしまうような何らかの強烈な意思表示を披露すべきであったろう。
光秀は、そうした人気取りや世評といったその時代の息吹きをまったく感知していなかったのかもしれない。
寺社や禁裏にいくら金銀を積んだところで世情は変えられない。
そこに確たる武士としての名分さえも立たずして、この先何が出来るというのだろうか。
結果的にはどこまでも逆賊として追撃されることは避けられなかったのではないのか。
事実そうしたもっとも肝心な部分が明確に打ち出されなかったからこそ、この事件の動機そのものがいまだに問われ続けている理由にもなっている。


(2012.09.26)


(注:1)


参考資料:
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇Ⅰ「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編Ⅱ「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇Ⅲ「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
戦国群雄伝 信長 秀吉 毛利 世界文化社 1996年
戦国京都・王城の地150年の英雄たち 1994年 学研
「戦国武将の参謀と異形の頭脳集団」 歴史と旅  秋田書店 1999年
「徳川創世記 家康・秀忠・家光の野望」歴史読本 1998年
「戦国武将一〇四傑」 別冊歴史読本94 新人物往来社 1998年
「秀吉天下人への道」 歴史読本 新人物往来社  1995年
歴史群像 明智光秀の野望 1992年12月号 学研
日本史史料集 笹山晴生 五味文彦 吉田伸之 鳥海靖 山川出版社 1994
日本史用語集 全国歴史教育研究協議会編 山川出版社 1994
図説日本史 啓隆社 1999
裏千家茶道のおしえ 千宗室(著) 日本放送出版 1979
「堺」豊田武(著) 至文堂 1957
「戦国武将ものしり事典」 奈良本達也監修 初版主婦と生活社  1993
戦国史新聞・乱世をスクープ! 戦国史新聞編纂委員会編 日本文芸社
「不思議日本史・歴史のウラが見えてくる」 南條範夫監修 主婦と生活社 1988 
信長と家康: 清須同盟の実体 (学研新書)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
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大航海時代叢書〈第11〉日本王国記・日欧文化比較 アビラ・ヒロン (著), ルイス・フロイス (著) 岩波書店 1965




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