徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

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郷土・筑後地方の謎に迫る(9)
失われた秦の傳國玉璽と謎の銅版


東洋医学史研 究会
宇田明男

昭和五十七年(1982)頃、福岡県山門郡山川町(現みやま市山川町)の蒲池山山中から古代の文字が彫り込まれた謎の銅板が掘り出された。
いや、正確にはそのような情報が伝わってきたというべきかもしれない。実際には、いつごろ発見されたのかの正確な日時さえ不明なのだから。
秦の始皇帝傳國璽 とにかくそれに関しては、きわめて断片的な情報しか得られなかったのであるが、その銅版について永年解読を試みてきた経緯を今回ここに紹介したいと思う。


この銅版との関わりは、瀬高町の郷土史家村山健治氏より2枚のコピー資料をいただいたことから始まる。
その1枚には銅版表面の拓本がコピーされていて、もう1枚にはその銅版の文字の判読できた部分だけが書き出されていた。
そのときの村山氏の話では、銅版を発見した人がそこに何が書かれているのかわからず、町の判子屋に持ち込んだらしいとういことであった。
その判子屋さんが古代史にも造詣があったこともあって、その珍しい銅版のコピーが入手できたというわけである。
出土したのがこの銅版が1点だけなのか、他に何らかの遺物が同時に出ていたのかはまったく不明で、肝心の銅版の所有者の氏名さえも特定できてはいないということだった。
もちろん、そこには所有者を公表できない何らかの事情があったとも考えられるわけである。

銅版に記されている文字はすべて古い時代の「篆刻文字」であり、その表面は相当腐食しているらしく彫り込まれている文字も不鮮明であったという。
銅版上には全部で八十個の文字が認められたが、コピーを見てもはっきりと読みとれない文字が少なくとも十字ほどあった。
工業用のエックス線で撮影すればすべての字 形は判別できると思うが、残念なことにそれを確認しようにも現物は所在不明ということで諦めるしかなかった。
もとよりすべての文字がこれで特定できなければ、正確な判読はできない。適当な文字を当てはめるにしても、誤謬のあることは否めないところである。
このことは後日、強く感じたことでもある。


解読原文1は途中まで判読がされていたもので、村山氏よりいただいたものである。解読原文2と3は、その後当方が独自に補足修正をこころみたものである。
銅板に彫り込まれた文字はいわゆる篆刻文字であり、内容も始皇帝の傳國璽(玉璽)が主題となっていることがわかる。
その文面から言うと、目の前の傳國玉璽についての詳しい由来を解説しているかのような雰囲気 が強く感られてくる。まるで、お宝の箱書きそのものである。
それにしても、何故に始皇帝の傳國玉璽に関連するような遺物が九州の山中から出土したのだろうか。
次々と、新たな謎が湧き上がってくる。
始皇帝の傳國玉璽関連の事物が、九州にもたらされた可能性があるなると古代史の ロマンも大きく膨らんでくるというわけで、当方もそれ以来あれこれ手がかりを求めて情報を探し続けたというわけだ。


注:郷土史家・故村山健治
1915年、福岡県山門郡瀬高町東山生まれ。旧制八女中学卒。
西日本鉄道、銀行に勤めるかたわら、郷土史に取り組む。 その間、古墳百箇所、地質調査四百箇所、発掘した遺物二万点、集めた古文書八百冊にのぼる。
九州考古学会会員、瀬高町文化財専門委員となり、さらに瀬高の郷土史研究に貢献する。
1978年10月『誰にも書けなかった邪馬台国』を出版(k.k佼成出版社、発行)

●「拓本のコピー」
秦の始皇帝傳國璽

●「解読原文1」
聞曰此傳國璽也此玉是
昔日卞和於荊山之下見
鳳凰棲於石上戴天進之
楚文王解之果得玉璽二
十六年○原工琢為璽李
斯篆此八字於其上二十
八年始皇巡狩○○○○
○源大作舟将○○○○


●「解読原文2」
聞曰此傳國璽也此玉是
昔日卞和於荊山之下見
鳳凰棲於石上戴天進之
楚文王解之果得玉撲二
十六年旨原工琢為璽李
斯篆此八字於其上二十
八年始皇巡狩東海瑯邪
挙源大作舟将難事狼藉
●「解読原文3」 聞曰此傳國璽也此玉是
昔日卞和於荊山之下見
鳳凰棲於石上戴天進之
楚文王解之果得玉撲二
十六年旨原工琢為璽李
斯篆此八字於其上二十
八年始皇巡狩東海廟満
間源大作舟将難事狼藉



<注>卞和(ベンカと読む)。撲ー研磨される前のあらたまが正しい。
始皇帝が宰相の李斯に命じて篆刻させたのは「受命于天既寿永昌」受命干天(じゅめいてんにうく) 既寿永昌(きじゅえいしょう)の八字であったという。

ここに登場する卞和の撲については、中国の故事としてつとに有名である。
紀元前8世紀頃、戦国時代の楚の人・卞和という人がいた。卞和は山中にて玉璞を手に入れ、彼はそれを楚の[厂+萬]王(レイオウ)に献上した。
ところが[厂+萬]王が専門の鑑定人にそれを見せると、これはただの石に過ぎないと断言した。[厂+萬]王は、卞和が騙したとして酷く怒り、罰として卞和の左足を切り落とした。
[厂+萬]王が逝去してその後武王が即位した。卞和は諦めずに再度これを武王に献上したが、武王も同様に鑑定人にその玉璞を鑑定させたのであるが、またしてもただの石との判定が出た。
武王もまた、王を騙したとして怒り、今度は卞和の右足を切断する刑を科した。


その武王が死去して文王が後を継いだ。卞和はその石を抱き、悲嘆にくれて楚山の麓で三日三晩泣き明かした。
卞和の流す涙は血となったという。
この出来事を耳にした賢明な文王は卞和の下へ人を使わし、卞和に事の次第を問い質した。
「この世には足を切り落とされた罪人は大勢いるが、お前は何故にいつまでも嘆き悲しんでいるのか」 と。
「私は両足を無くしたことを悲しんでいるのではありません。天下の玉璞をただの石くれと見做され、貞士として生きる自分のことが、ただの誑[たぶらかし]の族だと人に言われたことに悲しんでいるのです」 と卞和は答えた。
使者の報告を聞いた文王は深慮の後、玉の鑑定人を呼び出し、その石を連日連夜磨かせた。その結果、卞和がいうとおり見事に輝く世にも稀な璧玉が誕生したという。『韓非子』「第四巻第十三篇卞和氏」
この楚の国の宝玉が、後に戦利品として秦の始皇帝の手に渡ったのである。


●「解読原文2」の「読み下し文」

聞えて曰く。此は傳國璽也。此玉は昔日、卞和荊山の下に於いて、石上に鳳凰棲とこ ろに見われる。楚の文王、戴天之を進めるに之を解し、玉撲を果たし得る。
二十六年、旨を原ねるに工琢き、璽と為さんと李斯その上に此八字を篆す。二十八年、 始皇東海瑯邪を巡狩し、挙源、大いに舟を作る。将に難事狼藉。


●「意訳文」
伝え聞くに、これこそは傳國璽である。この玉璽はむかし、(楚人の)卞和氏が荊山 の下で石の上に吉兆の現れである伝説の鳳凰が棲でいる場所で見つけだしたものであ る。
楚の文王が戴天王位につく際に、これが玉撲(あらたま)であることを知り手に入れ たのだ。
始皇二十六年に、始皇帝の意により始めて玉を工が磨き、玉璽とするために李斯(秦 の丞相)がその表面にこの八字を篆刻した。始皇二十八年に始皇帝は東海の瑯邪台に 巡狩すると共に、挙源に大きな舟を建造させたが本当に大変で無謀な作業であった。



●あっけない謎解き!の顛末
実は、平成18年(2006)5月になって、この銅版原文の篆刻文字の出典と思われるものが出てきた。
この事実は偶然発見したのであるが、意外といえば意外な顛末であった。
それは中国「三大奇書」の一つとして有名な「三國演義・(焚金闕董卓行兇 匿玉璽孫堅背約)」の一部分であったのだ。
全く予想外の展開であり、内心苦笑せざるを得なかった。
三十年来の謎が一気に解けたというか、当方にとっては実にあっけない結末であった。
内容は以下の通りである。


「啓視之、乃一玉璽、方圓四寸、上鐫五龍交紐。傍缺一角、以?金?之。上有篆文八字云、「受命於天、?壽永昌」。堅得璽、乃問程普。
普曰、此傳國玉璽也。 此玉是
昔日卞和於荊山之下、見
鳳凰棲於石上、載而進之
楚文王。解之、果得玉。秦二
十六年、令良工琢爲璽、李
斯篆此八字於其上。 二十
八年、始皇巡狩至洞庭湖、
風浪大作、舟將覆、急投玉
璽於湖而止。 至三十六年、始皇巡狩至華陰、有人持璽遮道、與從者曰、「持此還祖龍。」言訖不見、此璽復歸於秦。
明年、始皇崩。後來子嬰將玉璽獻與漢高祖。後至王莽?逆、孝元皇太后將璽打王尋・蘇獻、崩其一角、以金?之。」


秦の始皇帝傳國璽 銅版では、文中「傳國璽」とされていて、一方の「三國演義」では「傳國玉璽」と書かれている。
その違いだけである。縦10文字、横8列に納めるために余分なこの1文字を省いて彫り込まれたものであろう。
それにしても、始皇帝の玉璽に関わる記述部分だけが抜書きされた銅版が山中から出土するということはどういうことなのだろう?
これも新たな謎ではある。
誰が何時ごろ作成したのか、どのような形で出土したのかも不明である。
腐食しやすい銅版ということなら、壷か何かに密閉された状態で掘り出されたのかもしれない。
肝心の始皇帝の玉璽自体は、皇帝の死後二千年の歴史の荒波に押し流されていまの所在はまったく不明である。
始皇帝の名を知っている日本人は少なくないが、始皇帝の玉璽に関心を持つ者は稀であろうと思う。
そう考えると、この銅版が日本人の手でわざわざ篆刻までして作成されたとは考えにくいところである。
もしかしたら筑後の山中より、この箱書きとしての銅版と一緒にその玉璽そのものも同時に出土していた可能性があるのかもしれない。


銅版や「三國演義」にあるように、始皇帝の傳國玉璽自体は、一度失われているということである。
ここでは巡狩中に洞庭湖で暴風に遭遇して、その際に舟が転覆しそうなので玉を湖に投げ込んで難を逃れたというように記されているが、不思議なことにいつの間にか傳國玉璽そのものは忽然と後から出てくるわけである。
おそらく宮中で傳國玉璽が、何者かの手によって持ち去られていたのではないだろうか。
仕方なく別の玉で再度傳國玉璽同様の、いわゆる偽物を作ったのではないか。
そうした辻褄あわせがどこかで成されたのではないかと思う。
これは秦の滅亡を暗示している。始皇帝が亡くなった時、この偽の玉璽で偽の遺言書が作られるのである。
この裏工作で秦の王朝は崩壊していく。


出土した銅版は箱書きとしてふさわしい。
つまり、この銅版が秦の傳國玉璽に添えられていたものだとすれば、最高に愉快であろう。
もしかしたら古代史の謎に満ちたこの九州の地に、失われた秦の傳國玉璽がひっそりと隠されているのかもしれないのだ。




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