徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

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第5章



 1、歴史探訪の道筋

 地球上に人類が登場して百五十万年前後経過しているという。有 史以前という表現があるが、人間の歴史として記録が残されている のはそのうちの僅か数千年でしかない。後の百四十九万年余の間は、 一体人類は何をしていたというのであろうか。

 現代の我々にしても、数年前の出来事や数十年前の事件を振り返 るとなると、記憶というものが実にあやふやなものであることがよ くわかる。

 個人にしても百年前などというと、特別手元に家系図でもなけれ ば数世代以前の御先祖様の名前などすぐには出てこないのである。 歴史というものはただほっておくだけで、時間とともに風化し埋没 していく。歴史に名が残るということ、事跡が残るということがい かに大変であるかということである。

 ここに文字記録のありがたさがあるわけであるが、記録がなけれ ば後日必然的に消滅してしまうことを意味している。

 たとえば日本の古代の遺物に銅鐸というのがあるが、『扶桑略記』 によると天智天皇の七年(六六八)正月十七日、滋賀県大津市の北 方、志賀里の山中に崇福寺を建立した際、その用地から五尺五寸の ものが出土したという。同様に『続日本紀』にも和銅六年(七一三) に大和国宇多(陀)郡から高さ三尺のものが出たとある。

 ところがである、もうこの時代にはこの古代の遺物が一体何であ るのか、何に使うのかといったことを知っている者も文献記録も残 っていなかったのである。その時代から言えば、それほど遠い過去 の遺物とは言いがたいものが、すでに七世紀にはすっかり忘れ去ら れていたのである。

 銅鐸についての記録が全くないことや、さらに銅鐸の使われた時 代が紀元前三〇〇〜紀元後二〇〇年の間であったなどといわれれば、 私など直ちに鍼医・徐福に結び付けたくなるわけである。

 徐福渡来が抹消されるべき何らかの理由があったと考えるなら、 同様に銅鐸自体にも廃棄されるべき背景があって当然であろうし、 それは計画的かつ徹底した史書の焚書が行われた証拠でもあると考 えるわけである。

 昨年ある会合で孔子直系七十五代目の孔健先生の講演を聞く機会 があった。講演の後で、どれだけ通じるか分からない拙い中国語で 一応挨拶をして握手をしたが、私などは数千年の歴史そのものに触 れるというような、随分と失礼な動機もあったのだけど、その伝統 ある歴史的存在感を直接孔健先生に感じたというわけであった。

 もちろん徐福の子孫も同じように中国に七十数代目の子孫が実在 するという。一節によると、日本でも福田、福島、福岡、福井、福 山、福永、福沢、福本、福地、福原、福本、福富、福園といった頭 に福がある姓名は徐福の子孫というから、読者にも該当される方は 多いのではあるまいか。

 2、古代鍼灸術と風水術

  最澄(七六七〜八二二)といえば、平安初期に天台宗を開いた 高僧ということで知られるが、延暦二三年(八〇四)に空海ととも に入唐した。そして翌年帰朝したわけであるが、実はこの最澄が九 州の筑後地方と深い関係があることはあまり知られていない。

 それも徐福渡来、古代祭祀や古代遺跡といったことについて、最 澄自らこの地を訪れ密かに探索した形跡があるのである。

 その経緯はこうである。延暦二四年(八〇五)最澄は唐を離れ帰 国の途についた。この際海を渡り帰朝するのに、わざわざ徐福と同 じ海上航路をとった。つまり九州南端を通って有明海に入り、北上 したのである。

 しかも最澄はいの一番にこの有明海沿岸の筑後国に上陸した。こ のとき最澄は唐で修行した高僧としての足跡を、この地に幾つかの 伝説として残したのであるが、それは実に奇妙なものであった。 (地図1参照)

 最澄の乗った船が筑後国近海を北上しているとき、東方の山腹に 不思議な光りを発見した。直ちに筑後国で下船し、その光りのもと を探して山中(清水山)に入っていったのであるが、山奥で道に迷 ってしまった。

 すると最澄の目の前に一羽の雉が現れて、彼を光り輝く大木(光 遠木とも合歓木ともいう)の根本まで案内したという。

 最澄はこの光る霊木で観音像を彫った。この一体を安置するため にこの地(本吉)に天台宗清水寺を建立したというのである。(写 真1参照)

 これは清水寺の縁起であるが、これ自体は何ら問題ではない。問 題は何故この山中に不思議な光りが最澄に見えなくてはならなかっ たのかということであり、何故この清水山に最澄が寺を建立しなく てはならなかったのかということなのである。

 つまりそうなるべき必然性がここにはあったと、私は確信してい るわけである。

 単純に考えれば、最澄にとって無視できない聖地(不思議な光り) であるからこそ、帰朝最初の足跡(寺院建立)をまずこの地に残し たというところであろうか。

 では何故、寺院建立のポイントを清水山の山腹に限定しなくては ならなかったのか。山ならそれこそいくらでもあるわけだから、別 段この場所にこだわる必要はないわけである。 このように最澄の 行動に注目した時から、寺院建立はその山、その地点にこだわらな くてはならない絶対的理由が、最澄には上陸以前からあったのでは ないかと私は考えるようになった。

 古代中国では都市や宮殿、城の造成、家屋や墓、霊廟を建てるの に風水の術(地術)を活用した。いわゆる天地陰陽の気の一つであ る風水の気の調和を求め、その土地の生気に感応して地気の流れや 集まり具合を風水師という専門家が見定めたというものである。

 ここには古代中国の伝統的陰陽・五行理論が窺えるだけでなく、 流動する天地陰陽の気がクローズアップされてくるのである。

 その自然界の生気は、風に乗ずれば散じ、水に界すれば止まると いうものであり、それを観察することによってその土地の環境とし ての吉凶をみるわけである。

 それによってそこに住む人々の運気を調え理想的居住環境を選択 し、長寿と繁栄とを子々孫々にまでもたらすという考えである。

 これは周代から行われていたもので、もちろん秦の時代も重要視 されていたから当時の徐福も風水術を充分知悉していたはずである。

当然この風水術を徐福が最初に日本にもたらしたのではないかとい うことがいえるし、実際に渡来した土地でそれを活用した可能性が 出てくるわけである。

 というのはもともと風水術はその背後にある自然哲学の多くの部 分には、古代中国医学の理論と合い通じる所があったからである。

これは本来人間の住む大地にも人体同様に生気の流れる筋道(龍脈) があり、風水の生気が集まっている龍穴(局)があるというもので あり、徐福の得意とする鍼灸術の経絡・経穴にも通じる考え方であ る。

 鍼医・徐福のもとでの鍼灸術がどのような発達段階にあったのか 不明であるが、当時の斉の輝かしい文化を考える時この点でも非常 な関心が持てるわけである。

 いわゆる中国古代の風水術そのものをみても、天地陰陽の気の捉 え方、脈と穴の認識、その生気の流れを観察する専門家の存在とい い、古代鍼灸術の「気の医学」としての成立の仕方との共通点と類 似点とを見ないわけにはいくまい。

 論考(2)で述べたように、大陸からの渡来人としての河童集団 にしても風水術と土木技術の関連性は濃厚であることはまず否めな い。

 風水師はその土地の地質、地形、川や池の位置、景観、気象、風 の流れ方、樹木の様子、道路の位置といった土地環境から生気を感 じ取り、そこから総合判断して居住や墓や霊廟、塔といった建造物 の配置と構築に最適のポイントを見つけ出すわけである。(図1参 照)

  山、川、方位の三者を観察し大地の生気が集まる龍穴を見出せ ば、その周囲に四神を配して神域を設け盤石の守りとするわけであ る。(図2参照)

 こうした技術には高度の測量や天文に関する知識も含まれていた。 それによって蔵風得水(大地に吹き渡る風の生気を集め、水脈を通 じて水の生気を得る)の術を最大限に活用し、農事生産や漁業(航 海)にまで大きな影響を与えたのである。

 しかも墳墓(霊廟)や自然の岩や巨石を使って神域を造成し、そ こに祖神を祀ることは風水術でも特に重要視されていたわけである から、新天地に渡来した徐福一行がこの風水術を活用しないほうが おかしいのである。

 ところでこのかって筑後国であった山門郡瀬高町にある清水山に、 霊場として天台宗清水寺が建立された時代(大同元年・八〇六)、 すでにこの地点はこの古代中国の風水術の影響下にあったのではな いかという推測が私にはある。

 もちろんこの時代には陰陽師の活躍は当然あったであろうし、最 澄も風水術に関心は持っていたと考える。寺院建立に際して最澄が この風水術を全く利用しなかったということは言えないが、同様に このとき本格的に実施したとはここでは断言できないのである。

 ただ最澄が当時の最高の学識を持つ人物の一人であることは疑い のない事実である。

 そこからの憶測でもっていえば、最澄がわざわざ筑後国に立ち寄 り、さらに山奥に入って自ら寺院建立のポイントを決定した事実を 考える上では、土木建築がからむだけにこの風水術が不可欠の要素 であったということはいえる。

 しかし、風水術でこのようなポイントを捜し出すのにこの時のよ うな短時日で遂行することは、まずもって不可能なことなのである。 三年尋龍、十年点穴といわれ、風水師が龍脈を見つけるのに三年、 また龍穴を感応して見つけ出すのに十年もかかるとされているもの なのである。

 結論から先に言うと、この清水山中、本吉の清水寺が九世紀初頭 に最澄によって建立される以前から、このポイントは明らかに聖地 であったのである。聖地としてそこに霊廟・神殿を置くべく古代に おいて、風水術がすでに実施されポイントが設定されていたのであ る。

 もっと明確な言い方をすれば、かってこのポイントには古代神域 として何らかの遺跡があったはずなのである。前回の論考(4)で 触れたように、太宰府政庁による古代神域の毀廃や遷宮によって消 されたものの上に最澄の清水寺が新たに建立されたことになるわけ である。

 3、最澄の画策

  最澄は恐らくその痕跡を目にしたであろうし、その廃墟がどう いうものなのかも理解している数少ない人物の一人であったと確信 する。

 それらを完全に隠蔽するために最澄が行動し寺院を置いたのか、 あるいはある種の鎮魂の意味を込めてその地に新たな霊場を設置し たのか私には分からない。

 最澄には筑後国に立ち寄るべき目的と寺院建立の目的とが最初か らあったらしいことまでは、これまでの史料の検討でどうにか推察 できる。それは唐に留学する以前から最澄の胸中にあったと考えら れるし、当時の桓武天皇の信任なしにはこのような大胆な宗教活動 をとることは絶対に不可能であった。

 当時の国内情勢からみたとき、天皇の勅願ないしは勅許がなけれ ばこのような古代聖地において宗教活動に直接関わる行動が高僧最 澄といえども帰朝直後に、しかも短期間にとれるはずがないのであ る。

 延暦年間に最澄や空海を登用した桓武天皇は、その一方で宗教界 の統制を強化した。しかも延暦二年(七八三)にいち早く私寺建立 を禁じているところから勘案すれば、明らかに最澄の後ろには大和 朝廷のこの政治的意図が存在しているとみなすべきである。

 最澄が筑後国に足を踏み入れたのはただの偶然ではない。最初か らその目論見があったとするならば、最澄には唐での何らかの調査 を朝廷から命ぜられていたのかもしれない。 

そして、その調査結 果を踏まえて直ちに筑後国に乗り込むことも、その地に新たな寺院 を建立することも、それこそ予定通りの行動だったというわけであ る。

 それはやはり徐福渡来の事跡に関するものであったと推理するわ けである。  このような経緯でもって、少なくとも最澄自身はこの筑後国の聖 地としての位置付けを充分認識できる確かな情報を握っていたと私 は確信している。

 多少回りくどい言い方になったが、ここでこの考えをもっと明確 に確証立てるための考古学的証拠を提示したい。(図3参照)  これは当地在住であった郷土史家の村山健治氏から戴いた年賀状 に描かれた古代の天文観察の紹介であったが、非常に興味深い観測 結果が図示されていた。

 村山氏は古代史の研究に太陽を中心とした天文観測に着眼し、長 年に渡って調査されていたが、山門郡瀬高町の古代遺跡の位置関係 を踏まえて日の出との関係を記録しておられたのである。

 百四十メートル四方にわたって巨石が散在する当地の堤古墳群か ら見ると、その東方に本吉の清水寺があり、その先に日向神社があ る。これを日の出と重ねると、春分と秋分の日に一直線に結ばれる ことがわかる。

 つまり堤古墳は古代の天文観測地点であったのである。同じよう に村山氏は近接する権現塚でも同様の観測地点としての位置関係が あることを観測結果として出しておられる。これらはまさに筑後の 古代ピラミッドというべき天文遺跡群なのである。

 権現塚神域、堤古墳(堤大国玉神)、清水寺、日向神社、権現岳 がそれぞれ関連しあった線上に存在することは、風水術による観察、 さらに計測結果としての龍脈や龍穴として、これらの神域がそれぞ れ位置づけされれば充分にその関連性が窺える。

 つまり鍼医・徐福の風水術によってこれらのポイントが設定され たとするならば、渡来後この龍脈の流れに沿って移動したとも、さ らにこれらの龍穴に神域を置いて行ったとも考えることができるわ けである。

(後日気付いたことであるが、ここで紹介した風水ラインを日本地 図上に転写してみると、驚いたことに紀州の新宮市に一直線に真っ 直ぐ伸びているのを発見した。

 九州の筑後と紀州の新宮市とは徐福の設定移動した風水ライン上 に関連づけられるというわけである。)

 しかもこれらの神域のポイントは、記紀に登場する神武天皇神話 に関連する地名とも重なるだけでなく、後世の邪馬台国の位置関係 とも微妙に関係していることも前回紹介した通りである。

 もちろん前述した「高野宮」もこれらの神域と近接している。し かも伝承記録によれば景行天皇の日向の熊襲親征の際の布陣地点は 高野宮のすぐ側(遺跡あり)であるし、天智天皇(六二六〜六七一) も皇位につくまえにここに足跡を残しているだけに、古代祭祀から みても無視しがたいものがある。

 4、もう一つの遺物

 今回の鍼医・徐福追跡の調査で、どうしてももう一箇所訪ねたい 神社があった。  これもまた郷土史家の村山健治氏から以前話を聞いていた所であ るが、そこには数体どころか二十体もの河童神像が安置されている というものであった。

 山門郡瀬高町大字有富のどの当たりにあるのか正確に記憶してい なかったのであるが、村山氏の遺稿や郷土史家の河村氏に教えられ てやっと突き止めることができた。(地図1参照)

 村山夫人にもわざわざ同行いただき、氏子の方を紹介していただ くという手順を踏んでやっと二度目にそのご神像を眼にすることが できたのである。

 場所は前々回の「高野の宮」から一.五キロメートルほど北東へ 行ったところに位置しており、ほぼ隣接した神社遺跡といえる。

 神社自体は相当の歴史があるらしく、幾度かの戦乱、合祀政策を 経ており、その結果として祭神が増えたかたちとなっている。  有富の「若宮神社」というのだが、ここは有富(あつずみ)とい う地名が示すように、安曇(あずみ族)、海人族の集落があった所 とされる。

 事実、古代においてはこの辺りまで海岸線がきていたわけだから、 地名伝承としても注目される。(写真2参照)  問題の神像であるが、三月下旬の寒風の吹きすさぶなか氏子の古 川氏にお願いして、社殿の扉を開けていただいた。

 社殿全体の作りはそれほど大きなものではないが実に荘厳な趣が あり、古木や古材が使われており、村山氏より頂いていた写真の河 童神像そのものが社殿の梁を支えているのを発見し、ここであらた めて感激の対面をしたという次第であった。(論考(2)写真参照)  社殿の中にはいくつもの祠があって、その一つに神像が安置され ていた。祠から出して頂いた神像は大小二十体あった。(写真3、 4参照)

 まさしく半裸の河童神像である。頭に皿も、背中の甲羅もない。 みるからに太古の人々の息吹を感じるような精悍な海人一族ともい うべき神像群であった。

 中には刀剣や矛を手にして武装した者、日月の幡(神幡)を持っ た者、稲穂を両手に持った者、筋肉隆々の力士など、いきいきとし た人物像が表情豊かにそれぞれの台座の上に佇立していた。  古代の勇猛な部族の姿をそのままに写し取ったような土偶である。

その原始の姿、力強さをこれほどまでに素朴な作りでもって、見事 に表現した神像がこのように伝えられているのには少なからず驚か された。

 ここにはやはり古代祭祀の息吹が感じられる。氏子の古川氏から 頂いた史料を見るとこの古社は荒神ということで、近在の人々に敬 われてきたとある。

 荒神ということであれば、これはまさしくこれらの河童(海人族) 神像が当てはまるのであるが、祭神は仁徳天皇、天児屋根命、武内 宿彌、瀬織津姫、少彦名命、菅原神となっている。(氏子、古川藤 重氏提供資料)

 これには又しても驚いてしまった。何という合祀のされかたであ ろうか。ここには全ての謎を解き明かす鍵が秘められているではな いか。

 私はここでこれらの祭神を説明し易いように三つのグループにわ けてみた。それは次のようになる。

  1瀬織津姫、天児屋根命、仁徳天皇
  2少彦名命、武内宿彌
  3菅原神


  1の瀬織津姫とは天照大神の后神であったとされる。記紀とは別 に天照大神は男神とする古伝があることが知られているが、ここに 瀬織津姫が登場して、さらに古代祭祀を司ったとされる天児屋根命 の神名が出てくれば、祭神に天照大神が欠けるのはどうみても不可 解である。

 天照大神はもともと海人族の祭神であったという。天=海(あま) であり、海族系氏族の台頭とともに六世紀中頃より皇室の祭神とし て記紀に登場しだしたのである。(『日本神話の謎』松前健著)  恐らく古代には太陽神・天照大神が安曇族によってここに祀られ ていたのではないかと考える。

 しかも八幡信仰にある応神天皇ではなく、その皇子の仁徳天皇に つながる合祀というのもやはり唐突ではないかと思う。

  2の少彦名命はまさしく医薬の神であり、古代中国の神農氏と並 び称される医術の祖神でもある。

 少彦名命の名は、『日本書紀』、『古事記』、『風土記』、『続 日本紀』、『先代旧本義』、『古語拾遺』、さらには医術書の『神 医方』に登場する。特に『神医方』には少彦名命の方剤(和方)と いうものが多く伝えられているという。(『言霊─ホツマ』鳥居礼 著)

 『日本書紀』に、「夫れ大己貴命(大国主神)、少彦名命と力を 勠せ心を一つにして、天下を経営す、復顕見蒼生及び畜産の為、則 ちその病を療むる方を定む」と記されている。しかもこの少彦名命 は久斯神(くしのかみ)ともいわれ薬の神でもあるわけである。  武内宿彌もこの少彦名命の和方を受け継いでいたという。

 実際にこの社は畜産(馬)の守護神、農耕(田)の神としての信 仰を集めていたことも事実である。   3は太宰府政庁・太宰府天満宮の影響下に後世合祀させられたと 考える。

 要するに、度々の合祀によって本来の主神やその神格が変遷して きたことは、この古社でも否めない事実である。  たとえ話として適切ではないが、ちょうど一人暮らしの住まいに 次々によそ者が居候として入り込んでくる形である。その結果母家 までも図々しく入り込んでくる。

 これこそ巧妙な手口である。本来の主人を追い出すほどの強引さ はなくとも、明らかに主客転倒の図式が浮かび上がってくる。  こうした合祀は決して古社を守り伝えている氏子側から成される のではなくて、時の為政者の都合によって強行され、押しつけられ てきたものである。

 つまり古代祭祀はこのようにして改竄され、変遷してきたことに なる。  そこからの焦点を絞っていけば、有富の若宮神社は古代において は水神(海神)と医薬・農耕の神が主神であったことは間違いない と思う。


 この考えが正しいとするならば、前回の探訪で紹介した「高野宮」 の祭神と共通する部分が出てくるではないか。

 つまり水神(海神)と徐福に象徴される医薬・農耕の神である。

 5、『准南子』と御神旗の符合

 有富の若宮神社の河童神像は明らかに海洋民族の雄姿を表したも のであるが、よく見るとふくよかな表情の女性像が六体ほど、さら に子供の像も数体ある。

 昔はもっと数が多かったのかもしれないが、現在形が残っている のは二十体である。
 見様によってはこれは河童一族(海人)の渡来してきた姿ともい えなくはない。

 しかも稲穂や武具を手にしているところを見ると、五穀の種子を 持ち武装して大陸から渡ってきた渡来人(徐福一行)を指している のかもしれない。  さらに、ここで私は神像の一体が旗指し物(神旗・幡)を持って いるのに注目した。(図4参照)
 昔からの伝承されている日月の御旗であったが、その図柄が実に 面白いのである。

 旗の上部に太陽(陽)と月(陰)が描かれ、下部に釣針が配置さ れて描かれている。  私はまず日月(陰陽)があることで古代中国の影響を考えたし、 釣針があることでここを根拠地としていた海人族のシンボルとして 単純に捉えた。(論考(3)参照)

 しかし数日後あらためて検討してみて、これは釣針であると同時 に海上で活用される天文図ではないかと考えたのである。
 日月に対して釣針状の星座、いわゆる海人にとって時間と方向を 教えてくれる北斗七星(指極星)を描いているのではないか。

 つまり北斗七星の形を釣針の形にシンボル化しているのではない かということである。
 ここで注目すべきことは鍼医・徐福渡来時 期に近い時代、紀元前二世紀に編纂されたという『准南子』天文訓 に、「天地の襲精は陰陽となり、陰陽の専精は四時となり、四時の 散精は万物となる。積陽の熱気は火を生じ、火気の精は日となり、 積陰の寒気は水となり、水気の精は月となり、日月の淫れて精とな るものは星辰となる。天は日月星辰を受け、地は水潦塵埃を浮 く。・・・」と記されていることである。

 これは天地創造神話の原型ともいうべき記述内容であるが、明ら かに当地の海人族は古代中国の祭祀の影響下にあったことは明白で ある。  とにもかくにも、このように海人族と医薬の祖神が同時に同じ所 に祀られていること自体非常に希有なことなのである。

 偶然などというものは、決してないのである。今回の論考も必然 的事項を書き並べたに過ぎない。  しかし私自身、二千二百年前の鍼医・徐福の足跡を探究しつつこ こまで追ってきたのであるが、追い詰めていくと深遠な古代日本の 創世期に繋がり、さらには日本神話の底知れないうねりの中に迷い 込みそうになる。

 それでも古代史の宝庫、筑後地方には開けられることなく埋もれ た古代史がそこここに顔をのぞかせている。そのことを教えて下さ った郷土史家村山健治氏との邂逅があったからこそ、浅学非才も顧 みずここまで書き連ねてこれたと思うと感慨深いものがある。  今後も鍼医・徐福追跡を続けたいと思っている。


                  (平成二年三月二十八日)



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