徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

九州歴史情報ネット館うだ整骨院PAL鍼灸室カネマサ健康通販電磁波過敏症対策からだ健康ネット資料館
時代小説ネット書店健康書籍専門ネット書店PM2.5汚染・感染症対策PC電脳特選街



第4章

 1、第二歩目を踏み出す
 さて前回までの論考を読まれた大方の読者は余りの急転直下の話
の進み方に多少驚かれたと思う。
 九州有明海沿岸のここが渡来地点か、これが徐福神像か。はたし
てこれらは真実だろうか?
 それにしても二千百年年前の謎の事件がこんなに簡単に解決して
しまっていいのだろうか?──
 これは常に私自身の内なる声でもあった。  物的証拠はもちろ
ん大事である。物事を判断する上での絶対条件である。予想も仮説
もこれがなくては決め手にならない。
 しかし前回の論考(3)で提示した物的証拠はその決め手として
の「インパクト」が、どれだけあるのかについてはまだ確定されて
はいない物である。
 それが本当に二千百年前の徐福の姿を伝える神像であるのかどう
かの判定がまず問われなくてはならない。
 同時に、状況証拠としてそこに古文書類が揃っていたとしても、
その条件は何ら変わりはしないのである。
 古美術品の裏書きと同様にそこに鑑定書が揃っていても、やはり
ここでは真贋は別問題であり、常に物的証拠としての真贋は問われ
続けるものなのである。
 たとえばこれが吉野ヶ里遺跡の瓶棺から水銀朱にまみれて出てき
て、明確に徐福像と裏にでも文字が明記されていれば何ら問題はな
いのである。要するに説得力のある物的証拠とはタイムカプセル同
様の厳密な取り出され方が要求されるわけである。
 このように何事も説得力を持たせることは難しいことであるが、
それでも歴史上の事実を踏まえて考察していく方法はいくらでもあ
ると確信している。
 歴史の教科書は読んでも糞面白くもないが、歴史小説はそれなり
にフィクションの肉付けがされていて迫力のある描写が当然のよう
に出てくる。
 つまり創作を交えずに事実だけを並べて説得力を持たせることは、
簡単なようでいて実に難しいことなのである。
 ただ事実をどう並べ、それで何をどう表現するかによって、歴史
というものの見方はどうにでも変えられるのである。
 しかしここでは歴史を面白く紹介するのではなくて、鍼医・徐福
が古代日本に渡来した事実を追求することが目的であり、それも医
学史の範疇から逸脱しない方法で真実を明らかにしなくてはならな
い条件がある。
 そしてそこに鍼医・徐福とそれを取り巻く古代の人々の情実があ
ることも、当然見極めなくてはならないと考えている。
 特に医学史の場合はそうした観点から話を進めなくては、単なる
技術渡来の文明史で終始してしまうことになる。
 それと同時に歴史の一分野を追求する以上、そこには必ず古代史
の謎といわれるものもやたらと足元に絡んでくるのである。
 それを解きほぐしながら進まないことには真実は見えてこない。
それだけ検討すべき文献史料は山のようにあるし、そこから拾い上
げて掘り下げるべき事項も少なくないのである。
 そういう意味で前回までの論考は、徐福追跡の第一歩と見ていた
だきたいのである。
 そこで今回は別の角度から前論をさらに補足し、新たな徐福渡来
の疑問点を探ってみてみようと思う。
 その上で我が国古来の医術・和方の集大成である医学書『大同類
聚方』成立の背景にまで迫ってみたいと考えている。

 2、大権現は鍼医・徐福か
 徳川家康(一五四二〜一六一六)は日光東照宮に東照大権現とし
て祀られていることは衆知の事実である。
 また和歌山県新宮市に有名な秦徐福之墓というのがあるが、これ
は紀州藩主、徳川頼宣(家康の第十子)が一六二三年に建てたもの
であるが、同じく一六三五年には徐福来遊図三方、小仏像二体、袋
物等を寄進している。 さらに一七三六年には新宮城主の水野大炊
頭忠昭がこの側に徐福碑を建てて顕彰したことも記録されている。
 徳川家康が大権現の諡号を賜ったが、これには天台宗の高僧・天
海の働きがあったことはあまり知られていない。
 何故にここで天台宗が登場するかについては、あらためて記述し
なければならない部分である
 徳川家が徐福を厚く顕彰する背後にはその出自に繋がるものがあ
るのかもしれない。(実はここには、怪僧天海の深い関与がある。)
 それはともかくとして論考(2)で徐福一行が紀州熊野に上陸し
たという古史があることを紹介したが、熊野といえば熊野三山、熊
野権現(三所権現)として知られている。
 東北の古史文献として最近注目されている『東日流外三郡誌』に
は徐福が津軽半島の先端にある権現崎に渡来したと記されている。
九州佐賀県の徐福渡来伝説の地、金立山にも金立山大権現として徐
福を祀る神社があることは論考(1)でも紹介した。
 そして福岡県筑後地方にも古来より権現山 (岩)、権現塚 (遺
跡)、熊野権現(熊野神社)が点在している。(地図1,2参照)
 なにも紀州だけに熊野や権現を冠した呼称があるわけではないこ
とを、ここで強調しておきたい。
 では一体 「権現」とはなにか、何を (誰を)さすのか。同時に
「熊野」とは何かということになる。
 私は以前から、筑後地方には五十メートル前後もの直径(長さは
百メートル以上)をもつ古代の円墳がいくつかあるが、どうしてこ
れらが権現塚と呼ばれるのか疑問に思っていた。
 それに何故当地の熊野神社の御神体には角があるのか。(非公開
のスサノオノミコト) 京都の八坂神社(祇園社)の牛頭天王(ス
サノオノミコトが垂迹)と神農との関連性は論考(2)で上げたが、
熊野三山の本宮ではケツミコノオオカミ(スサノオノミコトという)
を祭神としていることにも注目しなくてはならない。
 熊野には熊野牛王というのがあるが、これは熊野三山から出す牛
王宝印の護符、起請文を記すものをいうのであるが、同じように八
坂神社からもこの護符が出されている。熊野牛王の牛王とはやはり
牛頭天王のことではないだろうか。
 たとえば牛頭天王・神農・スサノオノミコトには、それぞれ頭に
角があるという特異な共通点があるのである。
 権現とは仏が権に日本に現れた姿をいうのであり、本地垂迹説を
いうのである。しかも権現、権化の権という漢字は本来黄色の意の
語源からきているという(『角川漢和中辞典』)。黄色の神、帝王
なら古代中国の黄帝を連想する。
 同時に熊野、熊本、熊山の地名の熊は古代の人名から出たとする
ならば、該当する人物名はすぐに出てくる。
 熊の意は火の精である。そうするとこの一字から、有熊という字
のあった古代中国の黄帝はもちろんのこと、炎帝ともいわれた神農
がここでも浮かび上がってくるのである。
 やはり徐福渡来伝説地と権現を冠した地点との関連性は当地でも
極めて濃厚である。
 私が住んでいるところから真東に八百メートルほど行った小高い
岡の上に、やはり熊野神社がある。古来より「日隈山(権現山・日
熊塚)」と呼ばれている。日の隈(熊)は火の熊、火の熊は火の神
である。
 ここの社殿背後の丘頂部で、古代の箱式石棺が発見されているこ
とからみても考古学の対象になりうる。
 この隣に「日渡」というところがあるが、火の神が渡ってきたと
いう地名伝承ということができる。ここには昔から河童が人間に接
骨医術を伝授したという伝説が残されているところでもある。(論
考(2)参照)
 さらにここで明記しておかなくてはならないことは、前回の論考
(3)で紹介した「高野の宮」(山門郡瀬高町大字太神字長嶋)の
東隣に海津というところがあるが、実はここにも昔から河童から接
骨医術を伝授された医家(菊池氏)がいたという伝承が残されてい
た。
 この事実は当地を案内していただいた八十歳の郷土史家、河村子
路作氏に教えられた伝説の一つであるが、何と河村氏自身のお名前
に子路(徐家の出身・論考(2)参照)の名前が出てきたのである。
しかも河村家は代々医家(和方)であったということである。
 今回この偶然とは思えない徐福との暗合が、ここで見事に重なる
のには少なからず驚いてしまった。
 こうなると鍼医・徐福追跡の論考もいよいよ核心に迫りつつある
ような手応えからみると、私が進んでいる方向にどうやら間違いな
いらしい。
 そしてここで徐福追跡の第二歩目が踏み込めたように思う。
 やはり古代日本に伝来した大陸の医術を考えると、河童  (接骨
術)・黄帝,神農(渡来人の祭神)に行き着くし、その伝承の背後
には医術者・徐福が介在していたことは明白である。
 この点をもっと分かりやすく記述してみよう。
 前述したように鍼医・徐福は黄帝の第四子を祖としているのであ
る。徐福が渡来後に祖神の祭祀を疎かにするはずはなく、徐家の祖
神である黄帝や医術の祖神である神農を祭神としてこれら点在する
神域に祀ったのではないかと考えるわけである。
 神農神と黄帝を強く結ぶのはやはり鍼医・徐福であるし、これで
さらに水神(河童)が加われば伏義・女〓の古代中国の三皇が揃う
ことにもなる。
 鍼医・徐福がこのように三皇を祀るということは、当時の神仙思
想からみても理にかなったことである。そこに古代中国の道教でい
う三神山を配置した祭祀が、我が国でも紀元前に行われた可能性が
出てくる。
 事実、佐賀県の吉野ヶ里遺跡でもその大陸から渡来した祭祀性は
充分に窺えるものであった。
 おそらく徐福没後の後世においては、徐福に特別な神格を持たせ
て、特定の神域に合祀したと考えられる。
 この古代祭祀を原始宗教と言い換えてもよいが、宗教と医術の親
密姓はあらゆる古代文明においても共通した背景がある。そして鍼
医・徐福がその司祭者としての特異な立場にあったとする考えは、
ここでも容易に成立するわけである。
 宗教の伝道として考えたときにも伝道士・宣教師は医術をその方
便として活用する立場にあったわけだし、その入植地に祠・神殿・
霊廟に類した聖域や建造物を立てる必要があったに違いない。
 もちろん上陸後、最初に足を踏み入れたところが徐福一行にとっ
ては、記録に止めるべき聖地であったはずである。それは山であっ
たり岩であったりするわけであるが、それが後世、各地の伝承遺跡
や神域としてそのまま残されたものといえる。
 しかしそのような手順で徐福渡来が確定されるとするならば、渡
来通路上に位置するこの九州有明海沿岸地方を全く無視して通過し
てしまうことは、どう見ても不自然この上ないわけである。
 まず九州の徐福伝説で三神山として伝えられているのは佐賀県に
ある黒髪山(山内町)、蓬莱山(武雄市)、金立山(金立町)であ
るが、これら有明海に面した地域一体は徐福一行にとってはまさし
く三神山に囲まれた聖域であったともえる。
 そのような意味で九州においても権現の地名を有する神域は徐福
渡来史上の一つの記念碑であったと思うわけである。
 ここでこの古代聖地の存在について、さらに一歩踏み込んだ考察
をしてみたいと思う。

 3、日本神話の謎に挑む
 筑後地方の熊野神社は桓武天皇の観請によって延暦十八年(七九
八)に創建されたというが、この背後には祭祀の排毀や合祀といっ
た複雑な経緯が隠されていると私は考えている。
 論考(2)で紹介したように、大和朝廷は九州制圧後に太宰府を
置いたが、その太宰府が天慶四年から七年(九四一〜九四四)にか
けて、問題の「筑後国」にあった六位以上の神名を徹底的に調査し
記録した事実がある。  このようなことは当時としては異例のこ
とであり、この背後にある政治的な意図がここでもやはり窺えるわ
けである。
 実はこの古文書がいまでも福岡県久留米市の高良神社の所蔵品の
中に残されており、『天慶神名帳』といわれているものである。奇
しくもこれは我が国最古の神名帳となっている。(資料1参照)
 こうした太宰府の監察は当然これが最初ではなくて、以前から度
々行われていたものと考えられるだけに、こうした朝廷側の筑後に
対する監察記録が残っていることは興味深いものがある。
 さて塙保己一(一七四六〜一八二一)といえば江戸中期の偉大な
国学者であるが、和漢の学に通暁して『群諸類従』、『続群諸類従』
を編集したが、このとき各地から膨大な古文献資料を収集した。
 このうち『続群諸類従』は千巻千百八十五冊の叢書であるが、そ
の中の〔神祇〕の部に興味深いものがある。
 それはこの『天慶神名帳』と同じものが、『筑後国神名帳』とし
て収録されていたのである。どうしてこのようなものが、ここに取
り入れられていたのか不思議でならない。
 九州の片田舎というか、一地方の古い文献史料が全く思いもよら
ないところから、ひょっこり顔を出すわけである。丁度前回の近江
国の善積郡のことが九州の古文書に登場しているのと全く同じであ
る。
 このあたりの不可思議さが、私から見れば実に面白いのである。
 十世紀にあっても中央の朝廷はこの九州の「筑後国」が、特別気
になって気になってしかたがなかったらしい。
 筑後の山門郡に権現山というのがあるが、この山について大正四
年に書かれた渡辺村男の『耶馬台国探見記』に次のように書かれて
いる。
 「昔は宝満山と呼んで居た山で、山上に宝満神社を安置せり。同
社は神武天皇の御母玉依姫を祀れり、今は宮跡地存するのみにて、
山の名も権現山又は権現塚山と唱ふ。佐野(現・山川町)の古老談
の伝承によれば、上古はこの社荘厳なりしも、中古筑前太宰府盛ん
なりしころ(神社と山名を)彼地に奪ひ去りて、これを筑前寵山に
祀れり」
 この遷宮事件は天智天皇三年(六六四)のことといわれる。何で
も太宰府の鬼門にあたるという難癖がつけられ強制的に筑前に移さ
れてしまったのである。
 このような筑後国における古代聖域にかかわる遷宮や合祀による
主神の移動を詳述するのは本論の主旨ではないので割愛するが、磐
井の大乱の後に大和朝廷によって計画的に行われたと私は考えてい
る。(論考(2)参照)
 ただ一つだけ言及しておくが、以前、郷土史家の村山健治氏に教
えられたことであるが、意外にも日本神話に登場する神武天皇の故
郷(誕生地)はこの筑後地方と断定しておられた。
 この村山説を紹介するのに『古事記』、『日本書紀』の神話から
当然解き起こさなくてはならない。分かりやすく要点を纏めると次
のようになる。
  1イザナギノ命は亡くなった妻を慕って黄泉の国に行ったが、醜
悪になった妻の姿を見て驚き現世に逃げ帰った。そのとき筑紫の日
向の清流で汚れを清めた。
 このみそぎの最中に、左目から天照大神、右目からツキヨミノ命、
鼻からタケハヤスサノオノ命  (スサノオノミコト)が生まれた。
2天照大神の子のニニギノ命が高天原から、大八洲の筑紫の日向の
久士布流多気(くじゅう岳か?)に天降った。
  3ニニギノ命はこの地の娘コノハナサクヤ姫と結ばれ、その子の
一人がヒコホホデミノ命であり、さらに海神の娘である豊玉姫との
間にウガヤフキアエズ命を生んだ。
 ウガヤフキアエズ命は海童の娘の玉依姫と結ばれカムヤマトイワ
レヒコノ命、つまり神武天皇が生まれたのである。神武天皇の幼名
はサノノ命といった。
  4神武天皇が日本平定のため大和に向かった神武東征も筑紫の日
向からとされている。 実はここには重大な事実が秘められている
のである。祕められているというより、事実が曲解されているとい
ったほうが明確である。 通説では筑紫の日向は九州宮崎の日向だ
とされているが、本当にそうであろうか。
 ここでいう 1〜 4の筑紫とは筑紫嶋(全九州の古称)を意味して
いるというのが通説である。しかし記紀には当然出てくるべき所に
肝心のこの「日向国」なるものがが出てこないのはどうしたことで
あろうか。
 『古事記』の国生みの神話に次のようにある。
「次に筑紫嶋を生みたまひき。此の島も、身一つにして面四つ有り。
面毎に手有り、故れ筑紫国を白日別と謂ひ、豊国を豊日別と謂ひ、
肥国を建日向日豊久士此泥別と謂ひ、熊曽国を建日別と謂ふ」
 筑紫嶋(九州)には筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の四国があると
書かれている。
 ところが驚いたことに大事な日向国がここには登場しないのであ
る。
 神話の中でも特別重要な位置を占めている日向国の紹介が、ここ
にないのはどうみても不可解きわまりないということになる。──
以上の村山説は徐福渡来を追っていく上での重要な一つの指針とな
るものである。
 筑紫嶋(全九州)と筑紫国(筑前+筑後)との曖昧さ、日向国と
筑紫の日向との紛らわしさ、ここには明らかに誤謬を招くべく巧妙
な細工がされているわけである。
 では何故そのようなことになってしまうのか。答えは簡単である。
1〜 4でいう筑紫の日向とは筑紫国の日向なのである。もちろん筑
紫国の筑後に日向という地名は古代から存在しているし、たかまが
原(高天原)や日向神社も現存しているのである。
 ところがこの事実を記紀に明確に書き込んでしまうことは、論考
(2)で解説したように当時の為政者にとって不都合があるわけで
ある。
 確かに筑紫国の筑後地方に大和朝廷の本家発祥の地があったので
ある。
 そしてその本家を大和朝廷側は醜い政争でもって結果的には滅ぼ
してしまったのである。当然このような事実を、記紀に明瞭に書け
るはずがなかったのである。
 神武天皇の母の玉依姫と関連のある権現山や、神武天皇の幼名の
狭野尊と同じ呼称を持つ山や地名がやはりこの筑後・山門郡に存在
する。
 面白いことに権現山には「たかまが原」という所があり、近くに
熊野社もある。
 これらの地は論考(3)で紹介した山門郡瀬高町大字太神の「高
野の宮」と隣接していることにも注目したい。
 つまり私が鍼医・徐福上陸地と考える地域一帯に、ぴったり重な
るようにして神話伝説として海神・海童の居住地や天孫降臨の土地、
さらには徐福の祭祀と関連する権現神域が存在していることになる。
 ここでも徐福=神武天皇説が再び浮上してくる。これをどう考え
るか、古代史の領域として見るならまたしても新たな展開が出てき
たというべきであろう。
 いやそれだけではないのである。この筑後山門郡一帯は従来(江
戸時代の新井白石)より多くの考古学者や郷土史家によって、邪馬
台国九州説の有力な候補地とされてきた古代聖地でもあるのだ。
 よって徐福追跡の手順として考古学的な史料を持ち出すとなると、
それこそ古代の遺跡や史料はこの地には無数にあるわけである。
本論は医学史が主流であるから、古代史やそれに付随する祭祀に深
入りする部分はどうしても割愛せざるをえないし、論及自体の軌道
修正ももとより必要になってくる。
 当然それらの膨大な史料や遺跡から、とにかく鍼医・徐福に焦点
を絞って選び出さなくてはならない制約があるのである。

 4、古代・和方の存在
 当時の大陸から持ち込んだ鍼医・徐福の医術といえば完成間近の
内経医学と神仙医術とが混在していたと考えられる。
 さらに前述したように飛躍した観点からいえば西域の接骨医術・
インド医学の流れもあったことになる。
 このうち接骨術は古代中国の西域・北方の騎馬民族が得意とする
ものであったから、その伝播の仕方は河童伝説が重要な手掛かりと
なるわけである。
 もちろん徐福渡来時にも古代日本の陸地には先住の原住民は存在
していたから、徐福一行は全くの無人の地に渡って来たのではない
のである。
 当然そこには人間の生活が営まれていたのであるから、原始的医
術があったはずである。徐福渡来後においては新たにもたらされた
大陸の医術が次第に新しい風土に順応していったであろうし、一方
それまでの原始的医術は淘汰されていったはずである。
 その後はこの伝来の徐福医術が古代皇朝医学の主流として受け継
がれていったと思う。というのは遣隋使、遣唐使といった後世の正
式な外交ルートで伝えられた中国医学に対して、この徐福医術があ
る面では日本古来の伝統的和法として対峙していたのではないかと
考えるからである。
 確かに国宝の『医心方』三十巻(永観二年・九八四)が中国の医
書をもとに丹波康頼によって編纂されたのに対して、それよりも早
くに平安時代の初頭(大同三年・八〇八)、日本全国の有力な神社
や名家に伝来されてきた医薬とその処方(和方)を、勅命によって
集めさせて『大同類聚方』百巻が編まれた事実があるからである。
 百巻というボリュームはそう簡単に無視できるものではあるまい。
その医術の構築には相当の歴史の経過と、経験医術の蓄積が窺える
ものである。
 ところが意外にもこの官制『大同類聚方』は早い時期に散逸して
しまったのである。
 新しい漢法に対して日本古来の和法というものの存在が軽視され
認識が薄れていったためか、あるいはこれも政治的意図があって故
意に捨てられたのか本当の理由は分からないのである。
 ただ考えられることはこの和方の原型を日本にもたらしたのは明
らかに鍼医・徐福であるということである。だからこそ有力な神社
や名家にそれらの処方なり医薬が伝えられていたのである。
 このあたりを考えるのにどうしても前述の筑後国の『天慶神名帳』
に係わる調書作成の経緯がだぶってみえるのである。
 『大同類聚方』編纂の目的は伝統的和方医学の集大成というより、
全国規模で情報が収集されたことによるその背後の史料的価値が朝
廷の最大の関心事であったとみるべきであろう。
 というのは、すでに当時は唐の方式を取り入れた医療制度が「大
宝律令」(七〇一)、「養老律令」(七五七)のもとに規定され、
医疾令が動きだしていたからである。
 いや、それより先に推古天皇三十一年(六二三)に医学留学生東
漢直福因と恵日が中国(唐)から帰朝し、その報告で「大唐国は法
式備わり定まれる珍の国なり、常に達ふべし」と、高らかに奉上し
たときから新たな中国医学の流入が本格化しているわけである。
 しかも五世紀初頭に大陸や朝鮮半島に医師を求めた歴史的事実を
も考え合わせれば、もはや和法に依存することを朝廷は全く考えて
はいないのである。(論考(1)参照)
 つまり、いまさら伝統的民間医療の和法を勅命をもってまでして、
収集し検討しなおす機運ではなかったというべきなのである。
 そういう意味で古風土記(和銅六年・七一三)を歴史編纂の材料
という名目で、諸国に命じて国々の情報を記して朝廷に奉らしめた
こととも無関係ではないと思うのである。
 そこには国史編纂の材料を集める名目もあったと思うが、大和朝
廷の日本統一後の豪族間の争いや政争による歴史の改竄はもとより、
政治的言論統制・焚書もあったとみるべきであろう。
 ただここで明確に言えることは、鍼医・徐福渡来によってもたら
された古代中国医術が果たした役割は大きかったということである。
おそらくこの和方医術の伝統や下地があったからこそ、後世の再度
の中国医学の急速な流入にも対処できたと考える。
 もしそうでなければ今日のように我が国において、東洋医学が浸
透しはしなかったのではないだろうか。
 ここに鍼医・徐福渡来の事実を究明することの東洋医学史的な意
義があるわけである。          (二・一・九)



徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

九州歴史情報ネット館うだ整骨院PAL鍼灸室カネマサ健康通販電磁波過敏症対策からだ健康ネット資料館
時代小説ネット書店健康書籍専門ネット書店PM2.5汚染・感染症対策PC電脳特選街


Copyright(C) 1998-2013 - jyofuku kenkyuukai - All Rights Reserved


inserted by FC2 system 1