徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

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第3章

 1、物的証拠とは何か
 鍼医・徐福の渡来伝説から始まった今回の論考には、いささか考
古学的手順を踏まえて進まなくてはならないようである。
 もちろん文献史料も必要であるが、それぞれ色々な立場から書か
れているものであるから、それらすべてをそのまま受け取ってしま
うわけにはいかないのである。
 原典であろうと根本資料であろうと、史料というものの評価は千
差万別である。
 事実をできるだけ正確に記録しようとしても、その情報がどのよ
うな経緯で入手されたものか、誰によっていつ記録されたのかが常
に問われるはずである。
 とにかく「鍼灸医術はいつ日本に伝播したのか」という疑問に対
して、徐福渡来は重要な手掛かりを持っているわけである。
 私が無謀にも医学史からさらに古代史の領域にまで踏み込んでい
こうとするのは、ただ徐福の渡来をできるだけ科学的に証拠立てた
いと思うからに他ならない。
 徐福渡来にはそれに答えるだけの手応えがきっとあると確信して
いる。
 このように冒頭から勿体ぶった書き方をするのは、もちろん前回
予告していたように徐福渡来の物的証拠をいよいよ読者の前に提示
するためである。
 この物的証拠をもっと早く持ち出すことはできたのであるが、そ
れと断定するにはそれだけの用意、ないしは手順が必要であると考
えたからである。
 まずいくつかの問題点も前もってクリアーしておかなくてはなら
ないのである。そうでなくてはこの証拠の提出は、余りにも唐突過
ぎる代物になってしまうと思う。
 恐らくここに発表するまで、これが鍼医・徐福と直結すると考え
た者はいなかったはずである。
 今現在においては論考するに必要な材料は揃っていると思う。詰
め将棋のように見事に詰め切るかどうか、前置きはこのくらいにし
て私自身の思考を整理していくかたちで核心に迫ってみたい。

 2、鍼医・徐福に繋がるか
 十年以上前のことであるが、その不思議な写真を郷土史家の村山
健治氏から見せられたときは非常に驚いた。〔注1〕
 少しでも歴史に関心がある者であれば、そこに何が写っているか
理解できるほどの遺物であった。(写真1参照)
 その写真には何と国宝である七支刀を、手に持った見慣れない人
物像が写っていたのである。(私自身これを七支刀だと思った。)
──(実は私のいう「物的証拠」とはこの人物像(神像)のことで
ある。)
 しかもこの人物像が福岡県内にある古いお宮、「高野の宮」に保
存されているということであるが、これには又しても驚かずにはい
られなかった。
 何故なら、七支刀は奈良県天理市布留の石上神宮にある秘宝であ
り国宝である。しかもである、明治六年(一八七三)に宮司によっ
て偶然宝庫より発見されるまで、その七支刀の形状はもとより存在
自体誰も知らなかったのである。(図1参照)
 一方、福岡県山門郡瀬高町大字太神字長島小字栗の内にある「高
野の宮」のご神体の一つとして、この七枝刀を手にした神像が古代
より祀られていたわけである。
 「高野の宮」自体の縁起は六十年前の火災で文書類を消失して伝
わっていない。だからご神体が一体どういうものかも全く不明であ
る。
 当地の七軒の氏子によって守られてきたこの「高野の宮」の神像
が持つ七支刀と、石上神宮の七支刀とは古代において何らかの関連
があったと、村山氏はその著書  『誰にも書けなかった邪馬台国』
(一九七八)で指摘されている。
 さらに村山氏は「高野の宮」の神像が手にしている七支刀を、邪
馬台国の卑弥呼が魏王から授けられた「五尺刀二口の刀」のうちの
一本と論考しておられる。
 『魏志倭人伝』に景初二年(二三八)に倭使に託して、倭王の卑
弥呼に五尺刀二口が贈られことが記録されているからである。
 つまり、もしこの世に七支刀に類する物があるとするなら、それ
は神宝として門外不出というかたちで保管がされてきたことを考え
合わせると、これら二つのものが同じ時代に同じ理由で作られた可
能性が当然出てくるわけである。
 これに関して私自身、村山氏から資料を戴いて独自に検討してき
た。一体この神像は誰を指しているのか。そしてこの神像が手にし
ているのは、はたして七支刀だろうかということについてである。
 私自身当初、これが七支刀であるということは、この神像の写真
を見るかぎり動かしようのない事実であると考えた。
 また人物についてもいろいろ想定してみたが、明確に特定するこ
とはできなかった。
 そのうち、渡来人らしい人物の顔と服装とを見ていて、私はもし
かしてこれはあの鍼医・徐福の神像ではないかと考えるようになっ
たのである。
 もし徐福であれば話は変わってくるのではないか。というのは刀
にみえるものは形から見て、この地方(有明海沿岸)に伝承されて
いる霊薬・薬草を表現したものかもしれないからである。
 事実見ようによっては七支刀ではなくて、七葉を広げた植物にも
見えるわけである。
 それに神像の服装は機能的な甲冑と見ることができる。冑は秦の
時代では銅製(一部鉄製)が作られており、頭全体を包み込む形が
多かった。
 上着も皮革製の皮甲であり、武将の出征時のものである。
 靴も皮革や厚綿で履きやすいものが当時すでにあった。
 徐福が一行を統率していくのにこのような武将の甲冑(軍服)を
身につけていたとしてもおかしくはない。
 ものの見方・認識というものは、このように状況の変化、捕らえ
方によって修正可能であることは明らかである。
 結局それまで七支刀という先入観に捕らわれていたためにかえっ
て、こうした見方を塞いでしまっていたともいえるわけである。

 3、七支刀か霊薬か
 まず七支刀と考えた時、次のような矛盾点が出てくる。
 この人物像は手に七支刀を所持・所有していることを明確に強調
している。
 だから卑弥呼へ下賜されたものであれば、当然女性像(卑弥呼自
身)でなくてはおかしいのである。しかしながらこの人物像は明ら
かに男性である。
 しかもこの人物像は倭人ではなく、大陸系の服飾からみても渡来
人であって、何らかの権威、統率力を表現しているようにみえる。
だからこの人物は単なる使者でもなく、卑弥呼でもないのである。
 その上、手にしている物に象徴される、統率力、周囲を威圧する
権威がどうみても無視できないのである。
 このように考えるとやはりこの人物は鍼医・徐福に特定できるよ
うに思う。この男性の神像を徐福とすれば、手にしているのは当然
薬草ということになる。
 神農氏の神像に共通するモチーフがそこに窺えて、一層興味深で
はないか──。
 とにもかくにも、徐福の渡来の目的は霊薬の入手である。この渡
来目的の発端は秦の始皇帝にあるにしても、この大義名分なくして
は徐福一行は遠征中の統率がとれなかったとみることもできる。
 以上、七支刀への反証を上げてみたが、とりあえずこれを私の第
一の仮説としょう。
 さらにもう一つの第二の仮説に挑戦してみることにする。
 それは神像が初め考えたようにいわゆる七支刀を手にしていると
して、この立場からも鍼医・徐福に関連づけてみようというもので
ある。
 一応断っておくが、現代の考古学、古代史で徐福と七支刀を結び
付ける説は全く存在しない。まさに本邦初公開である。
 まず徐福船団の一行の内訳は徐福一族と童男童女が大半であった。
前回紹介したように他の人員は百工の職人や船員といった構成であ
った。
 秦の始皇帝は徐福の航海に対しては特に経済的支援が中心であっ
て、装備・人員面ではすべて徐福の采配に任せていたのではないか
と考える。
 航海術にたけた船乗りの人選、さらに有能な造船技術者との交渉
などは、海岸沿いの斉に居住している徐福にとって好都合であった
はずである。
 しかも前述した『徐福文書』の記述を信じれば、徐福はインド留
学の経験があるわけだし、いわゆる海のシルクロードの認識は十分
にあったはずである。
 このことは特に古代中国でもこの斉の国の文化水準の高かったこ
とと、無関係であったとはいえないのではないか。
 その上で考えられることは、インドより西方の国々との文化的な
接触である。
 インドに七年間も留学した徐福にそれらの国々の情報が全くなか
ったとはいえないのである。
 当時、ペルシャ方面とインドとの交易がこの海の通商路を介して
盛んに行われていたことを考えれば、多方面に渡る文化的(勿論、
医学・薬学も含めての)影響があったはずである。
 事実古代中国の斉の沿岸部と古代インドとは紀元前二千年前から
交流していたとする説もある。
 実例を上げると一九五四年にエジプトのクフ王の実物の大船「太
陽の船」が発見されたが、紀元前二千五百年代のその船の材料の一
部にはインドにしかなかった樹木が用材として使われていたことが
確認されている。
 紀元前にすでにこれだけの高度の造船術と航海術とがあったわけ
である。(ソロモン王のタルシス船団も有名)
 それはさておき、インド,ペルシャとの繋がりが徐福個人に限定
されるにしても、あるいは徐福の家系自体の王家の末裔としての位
置づけからみても、これらの沿岸の海洋民族と何らかの深い関わり
があったと推定することは容易である。
 古代人の航海術について、東海大学海洋学部教授の茂在寅男氏は
その著書の中で、「私の基本的考え方は、現在までにもいくつかの
予備論文で主張し続けてきたように、有史以前から、人間は地球の
表面上を驚くほどの広範囲にわたって、航海または漂流によって、
多くの移動を行っていたとするものである」と書いておられる。
(『古代日本の航海術』)
 また同様に、「海には昔も今も、海流と風というきわめて雄大な
ハイウェイがそなわっているからである。古代人の幼稚な船といえ
ども、海流や風その他の気象条件にうまく乗りさえすれば、比較的
短期間のうちにおどろくべき距離を、地球上の一点から他の一点へ
と航海することができたのである」とも書いておられる。(『日本
語大潮流』)
 これから見ても、当時の徐福船団が海のシルクロード上を自由に
航行できるだけの大船を建造し、相当の輸送力と航海術とをもって
いたことは間違いあるまい。(図2参照)
 因みに日本に渡来したペルシャ人医師は、欽明天皇の十四年(五
三九)百済から派遣された医博士・奈率王有悛陀,採薬師・施潘徳
量豊,固徳丁有陀らが最初といわれる。(弘前大の松本助教授・京
大の伊藤名誉教授の研究報告)
 さらに天平八年(七三六)にネストリウス派(景教)の僧侶で医
師の李密翳が来日している。(『続日本記』)
 民間レベルではもっと早い時期に医術の伝来があっても不思議で
はないのである。

 4、メノラの燭台の話
 ここで七支刀の問題に戻ろう。
 七支刀の基本的な形は一本の垂直な刀に左右両則に三本づつ枝状
の刃が出たものであるが、これは王位の象徴、祭祀権、統治権を表
しているといえる。
 四世紀初めに邪馬台国の卑弥呼が魏王から授けられた、「五尺刀
二口の刀」もそうした意味相が強いものであった。
 『日本書紀』の神功皇后摂政記にも、百済の肖古王が三七二年に
遣使して七枝刀と七子鏡を献上したとある。
 こうした宝剣が王位の象徴として存在するという考えは東洋固有
のものではないのである。
 ではこのような七本の枝があって、しかもその上で王位の象徴、
祭祀権、統治権を表すものが古代において他に存在するかというこ
とになる。
 それに該当するのが古代イスラエル王国の祭祀権の象徴としてあ
った、聖なるメノラの燭台がそれである。これと七支刀の類似性は
実に興味深いものである。(図3参照)
 古代オリエントの祭祀性、あるいは王権の象徴性が一つの民族文
化として東洋に伝播し、影響を与えていたとも考えられよう。
 こうした海のシルクロード上の祭祀性の広がりは、突き詰めると
やはり鍼医・徐福にも繋がってくるのである。(徐福は王家の出)

 5、現地を取材する
 私自身ここまで鍼医・徐福について追い求めてくるつもりはなか
ったのであるが、やはり中国側の熱心な徐福研究に触発されたとい
うべきかもしれない。
 平成元年十一月三日に私が物的証拠と考える「高野の宮」の神像
を、自分で直接写真取材することにした。
 写真機二台に三脚、フラッシュ機材を車に積んで出発した。
 こうした行動に出るまでに、あの写真を眼にして十年以上経過し
ているのかと思うと感慨無量である。
 「高野の宮」の話を熱心にして下さった郷土史家の村山氏もすで
に無い。
 現地は広々とした田圃の広がる平野部であり、集落のあいだに遺
跡らしいものが幾つもあってその多さにまず驚かされる。
 ただ耕地整理や開発によって破壊されていく小さな祠はこうした
農村部でも少なくないようである。
 場所は鹿児島本線の南瀬高駅から南へ歩いて十分ほどの所にある。
 今回も郷土史家河村氏に親切に案内していただいて「高野の宮」
に辿り着いた。農家の敷地の東側に隣接して建てられた小さな古社
であった。
 氏子の因幡さんに扉の鍵を開けてもらい、中を覗くと神棚があっ
て五体のご神体が安置されていた。
 まるで二千年以上前のタイムカプセルを開けるようなときめきを
覚える。
 ご神体は管理上の処置として接着剤で台に固定されてしまってい
て、取り出すことができなくなっている。しかも前面に金網が張っ
てあって、写真撮影は予想以上に難しい状態であった。
 さいわい金網の扉は一部開けることができたので、私が以前から
徐福の神像と想定している像だけでもどうにかして撮影しようと、
カメラを構えてあれこれがんばってみた。
 手に乗るぐらいの小さな木製のご神像(二十センチメートルほど)
であるが、作りは精巧で表情も実に威厳のあるものである。
 今回現物を見て確かめたかった七支刀であるが、見様によっては
やはり植物にも見えるのである。
 それというのも石上神宮の七支刀のように明確な枝のコントラス
トではなくて、枝というより葉脈をも彫り込んだような具象的な形
になっている。(一枝欠けていた)
 やはりこれは鍼医・徐福の神像ではないのか。私は逸る心を抑え
ながら神像を食い入るようにして見つめた。
 問題はご神像の服飾である。この厳めしい装束と組み合わせると
なると、村山氏がいわれたように確かに宝剣・武具の七支刀が似合
うのである。
 しかしそう結論づけてしまうことは、後から行く者として余りに
も現代的な先入観に迎合しすぎる見方である。まだ検討されるべき
部分はいくつも残っているのである。
 神像が身に付けているヘルメットにみえるかぶりもの、首の周り
の装飾(あるいは防具)、皮甲とおもわれる上着、ズボン、それに
長靴。どうみても機能的な軍服である。
 この洗練された服飾はみるからに異国風であるが、ここには遠く
ペルシャ、オリエント方面の影響があるやもしれないのである。
 かって村山氏と冗談半分に話題にしたことは、当地に鍛冶屋が多
いことから、あるいはここにヒッタイト人が最先端の製鉄技術を持
って渡来したのかもしれないというものであった。
 まあそこまで飛躍しなくても、この神像を徐福としてみればそう
した部分はおのずと解決することである。
 徐福なら当時ペルシャ方面の服飾に身を包んでいたとしても少し
もおかしくないからである。
 船上で指揮をとるにしても、上陸して活動するにしても、中国風
の礼服を着用して動けるはずがないのである。貴人の徐福が船員同
様に半裸で動き回ることもできないわけだし、結局はこのような軍
服に近い機能的服装になるのではないだろうか。
 それともう一つは、現地を取材してあらためて気付いたことであ
るが、徐福と思われるこの神像と海人の水神信仰とのあいだにはや
はり密接な関連性があることである。
 五体の神像のうち河童神(甲羅はない・筑後では荒五郎ともいう)
と乙姫(豊玉姫・海神)があり、恐らくこの二体の水神はもともと
ペアであったと考えられる。
荒五郎の姿そのものは、当時の中国江南から九州北部有明海沿岸の
海洋民族に共通する姿、スタイルである。
海洋民族としての共通した祭祀を持っていたであろうし、太古より
少なからず交流していたと考えられる。
 これは拙論「鍼の起源を考える」で紹介したように、古代中国南
部を中心にした漁民・海洋民族(海人)の広範な水神信仰に結びつ
くものである。
 これも伏義と女〓との組合せであり、同じ水神としての類似性が
あるだけに非常に興味深いものである。
 もちろん鍼医・徐福も、こうした海洋を自由に航海する海人との
連携なくしては、蓬莱(日本)まで渡航することは不可能であった
はずである。

 6、平原廣澤の王・徐福
 徐福と想定できる神像と二体の水神像が同じ古社に合祀されてい
る事実は何を意味するか。
 少なくともこれは海洋を往来する海人の信仰する水神と、技術集
団の長である徐福の両方が祀られている背景を考察すべきことを我
々に教えてくれているのである。
 この平野部一帯(太神)は三千五百年前は海底か、海岸から近か
い地域であった。
 近隣の地名(字)も海津、古島、宇津、長島というように、海に
関連したものが集中して残っていることでも頷ける。
 さらにここから後世の海部、水沼、阿曇といった九州の海人(水
軍)の存在との関連性も問うことができよう。
 ここで古代の釣針について触れておこう。北部九州(有明海沿岸)
は考古学的にみても弥生時代の製鉄遺跡が集中しているところであ
る。
 ここ太神の地も古来鍛冶やを生業としてきた家が多いことも注目
しなくてはなるまい。 それと同時に、福岡県志摩町(御床松原遺
跡)や豊津町(川の上遺跡)からも、弥生時代の鉄製の釣針が出土
している。(図4参照)特に後者の場合は墳墓の副葬品として発見
されているが、古代人にとっていかに釣針が大事な道具であったか
が理解できる。
 拙論「鍼の起源を考える」でも触れたように、古代において冶金
技術による鍼と釣針の創製が相互に関連しあっていたことも見逃せ
ない事実である。
 こうした考察に立てば鍼と釣針はどこかで関係付けられる部分が
あるといえるのではないだろうか。〔注一〕
 そして徐福ついていえば、その専門の鍼医術にいち早く鉄製の鍼
を創製し使用していたとも考えられるのである。
 このように徐福と霊薬、徐福王と七支刀、徐福と海人、徐福と製
鉄、徐福と釣針(鍼)というように幾重もの関連性を秘めながら、
この太神の地に「高野の宮」の神像は存在しているのである。
 私が見る限りまさしくこれは徐福渡来の証拠であり、徐福像その
ものと確信する。そしてここに弥生時代の起源があるのである。
 最後に『史記』の(淮南衡山列伝)の一節を上げておく。
 「童の男女三千人を遣わし、之に五穀の種子と百工をおくりて行
かしむ。徐福、平原廣澤を得て止まりて、王となりて来らざりき。」


〔注1〕九州考古学会会員、長年郷土史に取組み、発掘した遺跡五
十箇所,古墳百箇所,地質調査四百箇所,発掘遺物二万点,収集古
文書八百冊にのぼる。昭和六十三年死去。
〔注2〕後漢時代に和帝の侍医になった郭玉の師である程高という
名医は、治療の際鍼を釣針のようにさばいたといい、さらにその師
匠の〓翁は四川省の〓川の辺に住む年老いた漁師であったという。
       (一、十一、八)



徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

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