徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

九州歴史情報ネット館うだ整骨院PAL鍼灸室カネマサ健康通販電磁波過敏症対策からだ健康ネット資料館
時代小説ネット書店健康書籍専門ネット書店PM2.5汚染・感染症対策PC電脳特選街




第2章

 1、新たな発想と展開

 前回、徐福の論考を書き上げて一週間後、例の吉野ヶ里遺跡の発 見が新聞紙上に連日のように報道されだした。

 場所といい年代といい、これは徐福や邪馬台国の時代に近いだけ に何か出てくるのではないかと期待が次第に膨らんできていた。  結果としてはそれらの謎に迫りうるだけの成果にはいたらなかっ たが、その全貌が浮かび上がるにしたがって、大陸との交流が想像 以上に緊密であったことは充分に窺えた。

 しかもその遺跡の規模からみても当時、すでに北部九州に強大な 権力者が各種の生産加工技術を掌握しており、集落というより武装 した砦といったものを作り上げていたわけである。

 この吉野ヶ里遺跡の位置は、徐福渡来伝説の地点からみても非常 に近く、まさに渡来地点圏内というべきである。  ただこの地において二百年前後の時間の差があるだけである。

 その上ここからは神仙思想に大いに関係する水銀朱が発見された ことも注目しておかなくてはならない。  今回は少し発想を変えて、意外な部分から鍼医・徐福の渡来伝説 をさらに大きく掘り下げてみたい。

 2、河童・(神農神)渡来伝説

 河童というと水性の妖怪として一般に知られている。普段は川、 沼、海に潜んでいるのであるが、頭の上には皿があり皿の水が乾く と神通力がなくなるという。
 相撲が好きで人や馬を水中に引き込むほどの強力の持ち主であり、 しかも悪戯好きである。

 これが一般的な河童のイメージであり、いまも日本全国に伝説・ 民話として伝えられているが、近年、古代水陸信仰の観点からその ユニークさが注目されている。

 というのは一般に知られている河童伝説の大部分は中世から江戸 時代にかけて創作されたもので、河童の本当の姿ではない。

 河童の原型となるものはもっと厳粛な水神そのものであり、龍神 の使い、眷族として畏怖されていたものであった。


 だから古い河童神像をみるとあの頭の皿も甲羅もない、みるから に恐ろしい力士像として表現されている。(写真1,2参照)

 では何故後世になって河童のイメージが変わったかというと、日 本の太古から存在した龍神(水神)信仰に対して大陸から伝播した 仏教の勢力が強くなったからである。

 そのために河童神像の頭に皿をのせて押さえ込み、さらに背中に は大きな甲羅を被せていよいよ異形のものとしてその力を打ち消そ うとしたのである。

 この河童について九州の有明海に面白い伝説が残っている。それ は昔、黄河上流(タクマラカン砂漠・タムリ盆地)にすんでいた河 童一族一千匹が黄河を下り、東シナ海を通って有明海に渡来したと いうものである。

 河童の渡来コースが明示されていて、内容としては徐福伝説と同 様に民族移動を連想させるもので興味深い。  河童は水神の眷族と前述したが、日本神話に出てくるスサノオノ ミコトは水神系の神々と関係が深く、同時に頭に角のある牛頭天王 と対比されることが多い。

 牛頭天王は京都祇園社(八坂神社)の祭神であるが、スサノオノ ミコトをその垂迹ともいうし、頭に角のある神農氏だとする伝承も ある。このあたりが実に面白いのである。  この牛頭天王はインドのインドラ(帝釈天)に仕える牛頭の神で ある。

 また祇園神は胡瓜を好まれるとされるが、これも河童神と同じで ある。  神農氏はもちろんのこと、牛頭天王や河童神はある種の医術と関 係している。  特に河童神は各地の伝承にあるように、人間にたいする悪戯の代 償として、あるいは恩返しに特殊な医術を人間に伝えたことになっ ている。それは「接骨術」であり、「骨接ぎ・打ち身膏薬」の処方 であったりする。

 さらに万能薬の製法の伝授、魚取りの秘伝というのがあるし、お 灸の伝授という中国医術まである。
 しかもこれに付随して河童は相撲のような手足を巧みに使う格闘 技を得意としているし、神殿建設や治水、架橋といった土木工事に も関係している伝承が多い。(写真3参照) 

そこから窺えること は、河童神が渡来神であることと同様に、このような外来の医術や 各種の渡来技術との関わりがあることを考え合わせれば、当然河童 一族なるものが大陸からの渡来人であることは明白である。
 しかも古代中国の神農氏が祭神として大きな比重を持つとするな らば、これは医薬に直接関係する徐福に繋がってくる。

 つまり徐福が最初に祭神として神農神を日本に伝えたともいえる わけである。  事実、日本全国の伝承をみていくと意外にも、徐福が医薬の神様・ 養蚕の神様・農耕の神様・捕鯨の神様として各地に残っていること も無視できないのである。

 そして河童一族というのはこの徐福の一族の多数の童子たちを指 しているのかもしれないし、原始的時代(縄文・石器時代)からい きなり弥生時代(稲作・鉄器時代)に移行していくあたりの考古学 的事実も徐福渡来にあるのかもしれない。

 少なくともこの時代の急激な変化は中国大陸・朝鮮半島からの異 文化、技術集団の渡来があったことは、ここからも容易に窺えるわ けである。

 私はかってこの点を捉えて、河童一族が古代において最も重要視 された神殿建設の技術集団として、オリエント(カッパドキア・ヒ ッタイト)やエジプトから移動し、中央アジア,古代中国を経由し て日本に渡来してきたとする説を発表したことがある。

 特殊な技術集団として自由に大陸を移動遠征できること。建設土 木に関係していること。それに伴う骨傷治療の医術を持っているこ と。オリエント──中央アジア──インド──モンゴル──中国─ ─朝鮮──日本と、繋がる格闘技の存在があること。牛頭に関連し た神像・祭祀を持つこと。──

 これらの共通する部分を論点にして、雄大といえば雄大、大ボラ といえば大ボラを、古代文明史の一つとして問うてみたというわけ である。

 4、徐福伝説とインド医学

 私は前回の論考で徐福渡来について、「当時の正史、もしくは文 献記録というものが我が国に残っていないし、後世の『日本書紀』 や『古事記』にもこの事件は全く触れられていない」と書いた。  我が国の正史といわれるものにおいては確かに徐福の記録はない。  同様に古代中国の史書に登場するあの邪馬台国や卑弥呼について も全く正史には記録はないのである。

 しかし邪馬台国や卑弥呼については正史に記述がなくても、我が 国の学会ではその存在が当然のように肯定され論じられているので ある。  そして徐福についていえば、正面きって論じられることはないと いう事実がある。

 私はこの辺の矛盾を突くつもりはない。ただ一つ、正史といわれ るものを離れれば、徐福渡来の詳細な部分が記録として残されてい る古文献は実は存在するのである。  『徐福文献』がそれである。通常は『宮下文書』、『富士文書』、 『神伝富士古文献大成』(八幡書店刊)といわれているものである。  これは日本に渡来してきた徐福が、神官に日本の古代の歴史を聞 きそれを漢字で記録したというものである。

 これが事実かどうかといった文献考証をする材料をあいにく当方 は持ち合わせてはいないから、そのまま受け取るより仕方がないが、 内容自体は実に興味深いものである。  原本は山梨県富士吉田市にあると聞くが、天智天皇四年(六六五) に中臣藤原物部麿が富士山麓にあることを発見し、散逸を恐れて書 き写して副本を残したといわれるものである。徐福渡来を中心にし て内容を紹介してみよう。

 鍼医・徐福が山東省の海岸を八五隻の大船団で出航したのは始皇 帝三年六月であった。 長期間の航海になることも考え、童男・童 女五百人を含めた乗員と、およそ三十年間の諸経費として金・銀・ 銅・鉄・珠玉や五穀の種子、さらに農事・養蚕・猟人・大工・佐官・ 楽人・機織女・酒造人・製油・製塩・鍛冶・鋳物・石工・細工師・ 医師といった技能集団百工を引き連れていたという。

 秦の始皇帝の厳命どおり東海上の蓬莱山を目指し出航した徐福の 船団は、一説によると孝霊天皇(七代目・前三四二〜前二一五)七 十三年に日本の紀州熊野に着いたという。

 さらにそこから駿河湾に進み富士山麓に土着したというのである。 もちろんここにも徐福の墓といわれる祠が残されている。  『徐福文献』には徐福の家系についても触れられており、前回、 中国側から報告されたものと比較すると非常に面白い。

 前回、紹介したように中国側の膨大な家譜調査によって究明され た結果によると、鍼医・徐福は三千年前に栄えた徐国の偃王から二 十九代目の後嗣にあたる中国屈指の名門の出であった。  日本側の古文献『徐福文献』によると徐福は中国三皇の一人、黄 帝の第四子を祖として、夏・周の王朝に仕え、その後野に下って八 十一代目に大聖孔子の十哲の一人であった子路を出した家系に生ま れたという。

 この八十七代目が徐福であり、家学の儒学を修めたのちに、なん とインドに七年間留学した経歴があるというのである。  つまり、鍼医・徐福は紀元前三世紀前に、すでに海のシルクロー ド上を船で移動した経歴をも持っていたのである。

 少なくとも鍼医・徐福は古代中国医学だけでなく、当時のインド のススルタ外科医術の精華を習得していたとみることもできる。  これがまたどこまで事実か分からない。しかし、徐福の時代にイ ンドとのこのような医学上の交流があったとするならば、拙論「鍼 灸師からみた華〓の医術」で言及したように、インド医学の影響は いよいよ否定できなくなってくるわけである。

 古田武彦著『邪馬一国への道標』によると、『論語』のなかで蓬 莱(日本)ゆきについて、孔子と弟子の子路が話している部分が出 てくることが指摘されているという。(『謎の神代文字』・佐治芳 彦著)

 つまり孔子の時代にはすでに蓬莱の存在、もしくは情報が知識と してあったわけである。徐福の家系にはそれ以上の特別な地理上の 情報があったかもしれないし、彼自身がインド留学時に知識として 蓬莱の存在を何らかのかたちで掴んでいたかもしれないのである。 またインドへ渡航する距離よりも明らかに蓬莱(日本)の方がずっ と近いのだから、海洋の通商路に精通した中国沿岸の海洋民族にそ の情報があったとしても不思議ではあるまい。

  5、もう一つの事実  ここで一つの謎として取り上げなくてはならないことは、重大事 件であるはずの徐福渡来が何故に我が国の正史に記録されていない のかということである。  これにはそれなりの理由があると思う。

 徐福一行は始皇帝のもとから逃亡したわけであるから、行動・経 緯を公表するのを当然はばかったのではないか。こう考えるのが一 番無難な考え方である。  しかし私の考えはそうではない。

 徐福一族は後世の邪馬台国・卑弥呼の勢力圏とのあいだに特別な 関係があったのではないかと思うのである。  それだけではない。九州の筑紫国造磐井の大乱(五二七〜五二八) にも深くかかわっていたのではないか。

 この磐井という人物は単なる地方豪族の一人ではなく、大和の朝 廷に対して皇位継承権を要求できる立場と、それ相応の強大な勢力 を九州一帯に持っていたのではないか。

 この大乱は皇統を根底から揺るがすような重大な事件であり、一 年以上に及ぶ大乱に懲りた大和朝廷側は制圧に成功した後、九州に 直轄の監視機関として筑紫官家を創設し、さらに太宰府を置くに至 るのである。  同時に大和朝廷は、これ以降は九州勢力、もしくは九州王朝の歴 史を徹底的に改竄・抹消にかかったのである。

 これが徐福や邪馬台国・卑弥呼が正史に登場しない直接の理由で ある。  つまり結論から言うと九州王朝と大和朝廷は、本来は本家と分家 のかたちであったのではないかと、私は考えている。  何故このようなことを紹介するかというと、やはり徐福一族が古 代の日本の建国の騒乱期に何らかのかたちでかかわっていたと思う からである。

 事実、中国の歴史家や有識者のあいだで昔から、徐福を神武天皇 とする説が信じられていたということである。(林房雄著『神武天 皇実在論』)

 こうみてくると鍼医・徐福とその一族は日本でも大いに活躍した ということになるわけである。

 6、歴史の発掘

 重大事件であるはずの徐福渡来が我が国の正史に記録されていな いということを以上述べてきたが、この点をもう少し補足しておこ う。  私はかって、最も古い地震災害の記録が『日本書紀』にあること を知って、それを調べてみたことがあった。

 『日本書紀』の天武天皇7年(六七九)一二月の条に、この月筑 紫の国に大地震があり、幅二丈(六メートル)、長さ三千余丈(九 キロメートル)にわたり地割れが発生し、山崩れによって多くの家 屋が倒壊したと記述されている。

 これを手掛かりに地元の古代史関係の史料を調べていたところ、 驚くべき事実が出てきたのである。  筑紫とは古代九州の筑前・筑後をさすが、このうち筑後の国はか って十二郡があったとされる。

 そのなかに九州最大の川である筑後川の河口を南北に挟むように して、河北郡,河南郡の二郡があったといい、それぞれ八百三十町 余,四百三十九町余の田地面積があったと伝えられている。  ところがこれらの地元の史料によると、このときは地震災害だけ でなく、この二郡が天変地異によって壊滅して一夜にして海(有明 海)に沈没してしまったというのである。(『山門郡誌』)

 この土地一帯は前述の磐井の大乱の際の激戦地であり、朝廷側が 最後に戦勝したところでもある。  しかも鎮圧後は新しいかたちで県の制度のもとに十二郡が統治さ れていたのである。  だが前述の『日本書紀』にはこの河北郡,河南郡の二郡の沈没に ついては、大災害にもかかわらず何も記述していない。

 しかし、この地方の鷹尾神社の古文書や私家の文献類には、大異 変としてその経緯が断片的であるが記録として残されている。  さらにこの筑後国の二郡が沈没した後に、朝廷から勅使が現地を 視察したことが記されているが、これがまた不思議なのである。

 この勅使は次のように言い残している。  「一つの郡全体が沈んでしまうような大災害は孝霊天皇の御代に、 近江国の善積郡が水没してしまい、我が国第一の湖(琵琶湖)とな った前例がある」と明言している。  もちろんこれも正史には記録がない。

 この件に触れ、後世注釈した文献に『山門郡名所旧跡一班』など があるが、これには孝霊天皇の御宇の五年(前三三七)と年代がは っきりと上げられており、この大異変と同時に駿河の富士山も大爆 発したことも記録されている。

 (このように古史古伝によると縄文時代に天皇家があったことに なっているので、にわかに信じられないが)。  つまりこれらの天変地異は当時としては直接、中央の政(まつり ごと)にかかわってくることであり、不穏な出来事と考えられたは ずである。

 「軍旅のあとには必ず凶年あり」と老子はいったが、こうした大 異変は醜い政争のあとに発生すると当時は考えられていた。  だから後世の権力者は、彼らの王朝にとって不都合な部分を正史 に正確に記録することを許さなかったのではないか。  そして、磐井の大乱を境にしてこれ以後、徐福や邪馬台国にかか わる古史の存在を正史が抹消してしまう本当の背景が、そこにある のではないかと考えるわけである。──

 と、ここまで書き連ねてきたが、なかなか真実は容易に顔をみせ てくれないのである。 だからといって言い出したからには、ここ で中断するわけにはいかない。

 しかも前回、鍼医・徐福の九州渡来説をあれほど力説してきた者 としてはなおさらである。  いよいよここで鍼医・徐福渡来を確証立てる物的証拠を、いよい よ持ち出してみようと思う。

          (一・十・九)



徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

九州歴史情報ネット館うだ整骨院PAL鍼灸室カネマサ健康通販電磁波過敏症対策からだ健康ネット資料館
時代小説ネット書店健康書籍専門ネット書店PM2.5汚染・感染症対策PC電脳特選街


Copyright(C) 1998-2013 - jyofuku kenkyuukai - All Rights Reserved


inserted by FC2 system