徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

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 第1章

 1、古代の医術伝播

我が国の正史に記録されている医術の伝播を、古代より列記するとおおよそ次のよ うになる。
四一四年・允恭天皇の病のため医師を新羅に求め、金波鎮漢紀武が来朝した。 四五九年・雄略天皇のため百済は高麗の医師徳来を遣わす。 五三九年・百済より 医博士・採薬師来朝。 五六二年・呉の知聰、薬書・『明堂図』など一六四巻を携えてくる。
つまり最も古い記録として、四一四年に初めて国外から医師が渡来したと言うわけ である。

同時にこれによって大陸系の医術が朝鮮半島を経由して、我が国へ伝播したと見る こともできる。
しかし、これに関しては『日本書 紀』に次のようにある。

 「(允恭天皇)三年春正月辛酉朔、使いを遣わして良き 医を新羅 に求む。秋八月、医、新羅より至でたり。則ち天皇の病を治めしむ。未だ幾時も経 ずして、病已に差えぬ。天皇歓びたまいて、厚く医に 賞して国に帰したまふ。」 これで分かることは、医師・金波鎮漢紀武が日本に渡 来したのは、 医術の教授ではなくて天皇の病を治療するためである。

 しかも滞在した期間はそ れほど長いものではなかっようであるか ら、医術の伝播と直ちに結び付けるのには多少無理があるように思う。 その点、四五九年に渡来した高麗の医師徳来は、日本に帰化して難波に住み、代々 難波薬師の名で医業を続けているから、これは明 確な医術の伝播と言えるものである。

 五六二年に呉の知聰が薬書・『明堂図』な ど唐以前の医書一六四 巻を携えて、我が国に渡来してきているが、これが外国医書の最初とされる。
なかでも『明堂図』は鍼灸に用いる経穴図であるが、当時我が国でどの程度鍼灸術 が普及していたか興味深いものがある。

それに鍼灸医術がいつごろ日本に伝わったのかはっきりした記録がないだけに、こ うした事跡を探究していくことも東洋医学史上の 一つの課題と思う。 ただ、ここに上げた医学史上の記録は外交的、国家的色彩の 強い ものばかりである。

 もちろん民間レベルではもっと以前に、大陸文化との交流が あっ たと考えられるし、医術だけがその例外だったとは考えられない。 それだけに近 隣の諸国との交流によって多くの物品や生産技術が 流れ込んでくる一方で、人的交流の面でも多くの成果があったと思う。 恐らく断片的ではあるが、大陸の進んだ医術や薬物がそうした交易関係を通じて伝 わってきていた可能性があるはずである。

朝廷がまず民間のこうした情報をもとにして、外交的に大陸の医術や医師を直接求 めたとも言えるわけである。

しかし正史で見る限り、五世紀以前にもあったであろうところの、医術の交流が明 らかでないのは残念なことである。

2、鍼医・徐福の渡来 そのように考えていた時、中国でにわかに方士徐福が注目され出したのである。

方士徐福については『史記』(秦始皇本義)・『漢書』(伍被伝)や『後漢書』( 東夷列伝)といった中国の歴史書に登場するが、こ れまで伝承の域を出なかった。 それがここにきて、初めて徐福渡来を考える上で の、大きな足掛 かりが出てきたのである。

 現在までの中国側の広範な歴史研究による追跡調査で、 徐福は実 在した人物として確認されただけでなく、中国本土(江蘇省)に本籍地まで発見さ たのである。

この事実を知ったとき、私は飛び上がらんばかりに驚いた。と言うのは、私はこの 徐福という人物に非常な関心を持っていただけで なく、これまでにもいろいろと史料なども集めて渡来伝説の信憑性を独自に検討し ていたからである。

しかも今回の中国側の研究によると、徐福がただの方士ではなくて歴とした王家の 末裔であり、更に鍼灸医術に優れた人物というこ とが分かったのである。

 彼は秦の始皇帝の非情な命令により、不老不死の霊薬を 求めて東 海上の神山に向かって出航したが、結果的には秦の暴政から危うく逃れて日本の地 に渡来したわけである。

その際に、あの悪名高い焚書坑儒以前の貴重な典籍を持ち出したという。これには 当然多くの医書も含まれていたとみられる。
つまりこの点からみても徐福の日本渡来は、中国大陸から初めて医学が伝播した事 跡として東洋医学史上の重大事件ということがで きる。
 それはともかくとして、こんどは徐福の渡来先である日本側にそ の確証があるかどうかが、当然問われてくる。
 日本の各地に民間伝承として徐福 の渡来地や墓までもが存在する ということは知っているが、ここに至っては単なる伝説記録の採集では答えになら ないわけである。

少なくともここでは科学的批判にも耐えうるものが必要である。

 その考証の仕方 として考えられるのは、徐福渡来地がどの様な手 順で証明されるのか、またそれだけの明白な事実があるのかということであり、そ の結果として徐福渡来地を特定できるものでなくて はならない。 これを証拠立てるのは大変である。

日本側にとって徐福渡来時期 はまさに弥生時代前期である。

例の邪馬台国よりも五百年前の出来事ということに なるからである。

ここから真実を引き出すとなると、それこそ至難の技である。

第一、当時の正史、 もしくは文献記録というものが我が国に残ってい ないし、後世の『日本書紀』や『古事記』にもこの事件は全く触れられていないか らである。

これにあえて挑戦しようとするのであるから無謀といえば無謀である。

しかし東洋 医学史の研究というものは、こうした考え方にも 立ってみることが必要であろう。 徐福が斉の国の出身ということを考えると、内 経医学との関係は 勿論のこと、当時ひろく流布していた神仙思想や本草学の影響が無視できないわけ である。

今回分かったことは、徐福が鍼灸術に大いに関係していたことである。

私のそれま での考えでは、徐福というのは所謂方士であるか ら、正統な内経系の医学とは別個の神仙系の方術を専らにしていた人物とみていた。 というのは秦の始皇帝をたばかって大金を出させて国外に逃亡したのだと、如何に もペテン師めいた伝説があったからである。

しかし事の真相は徐福の方が無理難題を押しつけられて、必死の思いで一族の命運 を賭けて船団を組織し、国外へ逃げ出したのであ った。 結果として彼の深慮遠大な計画はみごとに成功した。 3、徐福とは何者か 徐福はなぜ大船団を率いて大海に乗り出したのであろうか。 不老不死の霊薬を求 めてということであるが、当時、徐福はどの ような状況下におかれていたのであろうか。 先ずこの点を明確にしておく必要が あろう。 方士徐福について説明する前に、順序として古代中国の神仙思想について先に述べ なくてはならない。 中国の戦国末、斉の威王,宣王,燕の昭王らの国々からこの神仙思想が盛んになっ た。 それは蓬莱,方丈,瀛州という三神山が中国の東海上にあり、そこには多くの仙人 たちがおり、不老不死の奇薬もあれば黄金と白金 の宮殿もあるといった理想郷の存在を中心にした思想で、方術を得意とする方士た ちによって広められた。 方士たちは斉,燕といった山東半島の沿岸地方から続出したのだが、それというの も、その地方から見える海上の蜃気楼に惑わされ たためといわれる。
 彼らはもっともらしい理屈でもってそれらを粉飾し、それら があ たかも彼らの言う神山であるかのように吹聴した。 彼らは卜占,呪術,幻術,煉 丹術といった多種の方術で、各地の 権力者に言葉巧みに近づいたのであった。 当時の権力者にとって、方士たちの説 く神山に秘められた不老不 死の霊薬の存在は垂涎のまとであり、是が非でも手に入れたかったし、たとえ大き な犠牲を払うことであったとしても、彼らは惜しま なかったという。 『史記』(秦始皇本紀・封禅書)にも詳しいが、秦の始皇帝は こ の神仙思想にすっかり魅せられ、方士たちからその話を聞かされるたびに不老不死 への思いはつのり、ついにはその東海に浮かぶ神山 をたずね、不老不死の仙薬を入手することを斉の方士徐福に命じたのである。

徐福は直ちに大船二十艘に供物として童男童女三千人を乗せ、山東省の登州府から 東方海上に出航した。もちろん始皇帝はそのため の膨大な資材,費用を惜しまなかった。 だが徐福らは消息を断つたまま二度と故 国の土を踏まなかった。 そして、この徐福の船団が日本にたどりついたとする渡来伝説が、現在まで伝えら れているわけである。

4、徐福と鍼灸医術 『史記』(秦始皇本紀)に「徐福または徐市は斉の国琅邪の人なり」とあるとおり、 その本籍地は江蘇省〓楡県金山郷徐阜村(徐福 村)と判明した。 この事実は羅其湘・飯野孝宥共著『弥生の紅桟・徐福』に詳述 さ れている。
 さらにこの中で紹介されている徐福村の郷土資料『〓楡地方志』 によると、「徐福は医術に精進し、医学に長じ、鍼灸をよくし、煉丹を悟る。
秦の 始皇帝は長生不老を明らかにするために徐福を召見 し、ほかに長生不老丹を求む。」という記述に行き当たる。
 この史料は初めて目 にするものであるが、非常に核心を突いた内 容と思う。 ここで是非紹介しておかなくてはならないことは、この著書の中 で鍼灸医学の原典である『黄帝内経』の『真本』,『尚書』について、触れられて いることである。

それは、宋の『欧陽文忠公全集』の「日本刀歌」の一節に「徐福の行けるとき書い まだ焚せず。逸書百篇今なお存す。」とあり、さ らには明代の都印の著『聴雨〓記』に「あるいはいう、日本国は、『真本』『尚書 』を持てり、すなわち徐福入海のとき携えしものな り。」と言う一節があるという。 つまり中国側の古い記録によれば焚書坑儒によ って中国ではすで に失われた典籍が、徐福によって持ち出され、日本に伝わっていると言うのである。

これをどう見るか、またしても面白い指摘ではないか。 また中国側の歴史研究に よって、初めて徐福の家系が明らかにさ れた。 それは重要な郷土資料である膨大な家譜によって究明されたもの であるが、徐福は三千年前に栄えた徐国の偃王から二十九代目の後嗣にあたる中国 屈指の名門の出であった。 このことはあらためて徐福の医術の背景が問い直されるものである。

王家の家系で あって、医家となれば当然『黄帝内経』の系統と いうことになる。
5、鍼医徐福は何処に上陸したか 私がそもそも徐福の渡来に関心を持ったのは、 『後漢書』(東夷 伝)の次の記述を読んでからである。

 「伝えて言う、秦始皇帝、方士徐福を遣わ し、童男童女数千人を 将いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れ敢えて還らず。 遂にこの洲に止まる。
世世相承けて数万家あり、 人民、時に会稽に至りて市す。」 徐福らは故国を出航した後どこぞに漂着してい るわけである。

そ の漂着したところはどこか、これは会稽よりそう遠くない日本のどこかに違いない。 徐福の日本渡来について触れている我が国の古い文献と言えば、『神皇正統記』, 『紀伊国続風土記』,『羅山先生文集』,『異称 日本伝』,『同文通考』,『神伝富士古文献大成』,『肥前州古跡縁起』などがあ るが、ここでは『肥前州古跡縁起』にそって、九州 渡来説を紹介したいと思う。 『肥前州古跡縁起』によると、秦の始皇帝の名を受 けた徐福が、 不老不死の薬を求めて童男童女七百人をつれ、海流に乗って筑後川の河口、現在の 佐賀県諸富町寺井の津に着いたという。 筑後川の河口といえば地理的に有明海沿岸であるが、九州渡来説の多くがここに集 中している。
あたかも徐福の大船団が有明海に入り込み、次々に上陸したという連想を抱くのに 充分な迫力がある。

たとえば同じ佐賀の早津江川の河口にも上陸伝説が残されている。
 ここでは徐福 一行が盃を浮かべて上陸地点を占ったというので、 「浮盃」の地名があり、さらに上陸して佐賀市の北方にある金立山を目指して進む 途中、潟地に足を取られるため千反の布を敷いてそ の上を歩いたというので、そこを「千布」というようになったという地名伝説が残 っている。
上陸に際して易を立てたり占うということは、当時の徐福らのおかれた状況と考え 合わせると、至極当然な手順と思われる。
しかも上陸して進のに千反の布を敷いたということは、地理的にも地質学的資料か らみても頷けることである。

現在の佐賀市周辺は先史時代、満潮時には海面下となり、干潮時でも有明海沿岸特 有の潟地であったといわれており、そこを歩いて 進むなどということは、まず不可能であったろう。 潟地というのは、いわゆるヘ ドロ状の湿地帯であり、どうしても 板状のものを敷いて踏み渡って行かざるをえなかったはずである。

 伝説では徐福 はこの地を足掛かりとして霊薬を広く捜し求めたと いわれ、その霊薬は「クロフキ」というカンアオイ属の薬草、それといまでも、お おいに持て囃されている「霊芝」だったと伝えられ ている。
 また徐福は上陸地点からそう遠くない金立山中の金立山神社の縁 起としても祭られている。
 佐賀県から有明海沿岸に沿って福岡県に入ると、八女 市山内とい うところに童男山の古墳といういうのがある。

ここには、漂着した徐福ら一行の童 男童女を助け出したという伝説が残っていることで 有名である。

 焚き火をして、難にあった彼らをすべて蘇生させたという伝承に 由来する興味深い行事も、毎年地元の小学生らが中心になって行われている。
ここは地理的には海岸から二十キロ内陸に入った地点にある。

 そこより北方に位 置する筑紫野市天山の山腹には童男童女の岩と 呼ばれるものがある。

これは徐福が渡来したとき一行の船をつなぎ止めたという伝 説に由来する。
ここも有明海沿岸から内陸に五十キロ程はいった地点になる。
 このように伝説に いう上陸地点や伝承遺跡の位置関係を纏めて書 いてくると、どうしても不可解な点に気付かざるを得ない。 それは上陸地点が余 りにも海岸から内陸部に入り込んでいること である。

 現在の九州地図に重ねてみるとこれは歴然としてくる。
二十キロ 〜五十キロも海岸から船を引き上げてきたような矛盾はどこから来たものであろう か。(図 1参照) ここに伝説は伝説に過ぎないという安易な結論付けがなされてきたことの、一つの 理由がある。

事実、この謎ともいうべ矛盾が解明できなければ、一歩も前には進むことは出来な いわけである。

6、渡来伝説を掘り下げる この謎ときのヒントは偶然もたらされた。 それは昭和五十五年四月二十七日付け の「読売新聞」紙上に発表 された「九州古代地図復元」の記事と、昭和五十七年五月二十日付けの「三千五百 年前の九州北部」の二つの記事であった。 これらの記事は九州大学工学部の真鍋大覚助教授が発表されたもので、各地のボ− リングでのハイガイ化石調査による放射性炭素年 代測定よって解明、作成された古代九州の詳細な地形図であった。 これは驚くべ き新説であり、その内容は 1博多湾と有明海は太宰 府付近を瀬戸にしてつながっていた。 2福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地 方は群島だった。 3島原半島は雲仙岳をいただく大 きな島だった。──という調査内容は、私にとって非常にショッキングな情報であ った。(図 2参照。黒い部分が陸地) 私はすぐに徐福渡来の上陸地点とこの地形図を対比してみた。 博多湾と有明海が つながっていたことと、海岸線が現在よりずっ と内陸部にあったことなどを考えれば、伝承されているすべての上陸地点は古代の 九州北部の地形図にみごとに符合するではないか。 これで渡来伝説の上陸地点についての地理的矛盾は解明されたことになる。
それと 同時に、たとえ後世において上陸地点が創作され たとしても、古代の地形までも考慮しつくした伝説が作れるはずがないということ が言えるわけである。

私は鍼医・徐福渡来の信憑性は、いっそう高いものになったという確信を持った。 7、「クロフキ」・「霊芝」は霊薬か 前述した徐福伝説のなかで「クロフキ」というカンアオイ属の薬草について触れた が、一体この植物には何が秘められているのであ ろうか。 この世に霊薬などあるはずがない、まして不老不死など馬鹿馬鹿 しいと一笑に付されるのは自明の理である。

 しかし何故このクロフキという植物 が霊薬としていい伝えられて きたのであろうか。 今でもこの薬草を採取するために金立山に登ってくる人があ ると いうのだが、ここにも何か謎めいたものがあるように思える。
 地元でクロフキと 呼ばれるこの薬草を調べてみると、学名は「細 辛(サイシン)」と呼ばれるものであることが分かった。 このカンアオイ属の植 物は薬用植物であることに間違いなく、一 般には漢方薬として常用されているものである。

 漢方薬に含まれるだけに、もち ろん中国大陸にも自生している種 類の植物であるし、日本では本州,四国,九州に分布しているという。 特に九州中部を中心に「クロフネサイシン」という種類が自生していることが判明 した。クロフキはクロフネであったのである。

咳を鎮めたり、利尿効果のあるというだけのこの薬草がどうして霊薬とされたのか。 これには当然ともいうべき理由がやはりあった のである。

 今から二千年近く前の中国後漢の時代に纏められたという最古の 本草書に『神農本草経』というのがあるが、これは当時の神仙思想の影響を強く受 けていて、薬物を上薬,中薬,下薬と分類し、それ ぞれ薬効を格付けしていた。 上薬に含まれる薬物は疾病の治療というより、不老 長寿の効能が あるとして大事に扱われた。 細辛はその草部上品に加えられていたから、不老長 生の奇薬と見 られてもおかしくなかったのである。

 つまり神仙思想や本草にも詳しかった徐福 が、金立山に自生する クロフネサイシンに「霊薬」というレッテルを貼ったとしてもおかしくないわけで ある。

まさしく当時の徐福にとってクロフムサイシンは霊薬であった。 さらに霊芝(芝 草)についてであるが、これも有明海を望む山間 部に徐福の霊薬として伝承されているものである。

 もちろん霊芝も『神農本草経 』の上薬百二十種の中に含まれてい る。
 霊芝は珍しい茸(マンネンタケ)であり、入手しにくいものであ っただけにこれらの地方でも昔から珍重されてきた。そして現在は当地で人工栽培 されているほどである。

霊芝に関連した考古学的史料として佐賀県唐津市の桜馬場遺跡が有名である。

この弥生時代の遺跡から発掘された甕棺に埋葬されていた遺品の銘文のなかに、「 玉泉を飲み、棗を食べ・・・、芝草(霊芝)を摂 れば、寿命金石の如し」とあるだけに、ここでも徐福と神仙思想の渡来が問われて くるわけである。

(一九八九、一、二三)



徐福研究会が、ついに古代史最大の謎にせまる。太古の日本に渡来した徐福とは何者か?

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