「こころの休憩室」


元気に長生きするためのお節介きわまる話
神農本草経・医心方に関連して

東洋医学史研 究会
宇田明男

中国唐の時代の大中3年(849)にある老僧が皇帝(宣宗)に拝謁した。
『錢易』・南部新書・辛「大中三年、東都(洛陽)に一僧進む。年一百二十歳、宣宗、 何の薬を服して此に至るかを問う。
僧對えて曰く。臣少は賤、素、薬を知らず。性本茶を好む。至る處、唯茶是を求む。
或いは出て亦、日に百余椀に遇う。常の如く日に亦、四五十椀を下らず。因、茶五十 斤を賜る。保寿寺に居せしむ。」──
唐代の話であるが、お茶をがぶがぶ飲んでいたら百二十歳まで長生きした坊さんがい たというのである。
この坊さんどこぞでのんびりと暮らしていたであろうに、誰かおせっかいな者がいて、 ここにこんなに長寿の坊主が居りますよというようなことを皇帝に奉上したらしい。
 それで、とうとう洛陽の都まで引き出され、宣宗に拝謁することになってしまったと いうわけである。
坊さんにとっては、まったく余計なお世話なのである。

こういう例はいくつかある。


我が国でも九世紀の薬学者の竹田千継は『神農本草経』で枸杞の薬効を知り、十七歳 より続けて服用していたところ、九十七歳になっても髪は黒々として若々しく、周囲の 者を驚かせていた。
まわりの(おせっかいな)声もあって斉衡二年(八五五)に以前より体の弱かった文 徳天皇に、この枸杞の服用を進める奉上を出してしまった。
これには天皇が大いに喜ばれ、彼の本草学者としての知識と経歴とをかわれ、宮廷の 薬草園での枸杞の栽培管理の役目を仰せつかった。
しかもその上に側近として左馬寮允にまで任ぜられてしまった。
こうなると竹田千継はやたらと忙しくなり、活力の元であった枸杞茶を飲む暇がなく なってしまい、急激に老化・老衰現象が現れて二年ほどして死んでしまったのである。
これがおせっかいでなくて何であろうか。 
因みにこういった長寿者・万能薬の存在 といった種類の奉上は、お上に特に喜ばれ、紹介者や奉上したものは場合によってはた くさんの御褒美が下賜されたのである。
やはり昔も今も価値ある情報というのはあるわけであるが、それを受ける方もそれな りに対応していないと、詐欺まがいの情報に振り回されてしまうし、逆に有益なニュー スが入ってこなくなるのである。


しかしながら昔から長寿法やら奇薬というのは、権力者が天下に布告してまでして求 めたから、実際に宮廷に持ち込まれる機会は特に多かったようである。
たとえば隋の煬帝の時代の奇薬に関する奉状が、わが国で編纂された医学書の『医心方』にも転載されているのでここで紹 介してみよう。
「(古今)録験方に云う、益多散。
女子、臣妾、再拝して書を皇帝陛下に上る。頓首、頓首、死罪、死罪。愚聞く、上善 は君を忌まずと。妾が夫、華浮、年八十、房内衰ふ。知る所従り方を得たり。
方は、生地黄、洗い薄く切り、一升の清酒を以て浹さしむ。浹へば乃ち千たび搗きて 屑と為す。十分。
桂心、一尺、二分に准ず。甘草、五分、炙る。朮、二分、乾漆、五分を用いる。
凡そ五物、搗きて末とし、篩に下し治めて合する。食後に酒を以て、方寸匕を服すこ と日に三たびす。華浮、此の薬を合わせて未だ之を服すに及ばずして病没す。
故、浮に奴あり、益多と字なす。年七十五、病みて腰屈み髪白く、横ざまに歩きて傴 僂む。妾、之を憐れみ、薬を益多に與う。
服すること二十日にして腰伸び、白髪は黒く 更わり、顔色猾澤、状三十の時の若し。
妾に婢有り、番息、謹善と字なす二人なり。益多以て妻と為し、男女四人を生ましむ。
 益多出て酒を飲み、酔いて帰れば、趣して謹善を取る。謹善、妾の傍らに在りて臥す。
益多追いて謹善を得て、與に交通す。
妾、覚り偸み聞くに、気力多く壮動にして、又微に他の男子に異なるあり。
妾、年五十なるも、房内更に開きて懈怠するを、人は識らず。自ら女情を絶断するこ と能はず、為して二人を生む。
益多は、妾、番息等三人と陰陽を合わせて極まり無し。時に妾、奴と通ぜしを恥識り、 即ちに益多を殺す。
脛を折りて中を視れば、黄髄有り、更に充満す。是を以て、此の方に験有るを知る。
陛下御するに膏を用いれば、髄随いて満る。君、宜しき良方なり。臣妾、死罪、稽首 再拝、以て聞す。」

このようにただ漢文を読み下しても、一般には馴染まないのでこれをわかりやすく意訳してみよう。

「(古今)録験方に益多散という処方がある。
ある女が言う。わたくしは再拝して皇帝陛下に書を上つります。頓首して謹んで申し 上げます。
わたくしは善いことは陛下に忌みはばかることなく奉上するものときいております。
わたくしの夫華浮は八十歳で腎虚となりましたが、知り合いから一つの処方を教えら れました。(中略)

この処方を食後に酒でもって一寸四方の匙の分量を日に三回服用します。
夫華浮はせっかくこの薬を調合いたしましたのに、これを服用しないままに病死して しまいました。
それで、夫には益多という奴隷がありまして、年は七十五になりますが病気で腰が曲 がり髪も白く、横向きに歩いて背中がまるくなってしまっておりました。
わたくしはこれを憐れに思い、この薬を益多に与えました。
二十日間ほど服用しましたところ腰が伸びて、白髪も黒く更わり、顔色までがつやつ やして見た目には三十代の若々しさとなりました。
わたくしには番息、謹善という二人の婢がありましたが、益多は二人を妻にして男女 四人を生ませてしまいました。
 益多は外に出て酒を飲み、酔って帰れば、趣くままに謹善に抱きつきました。謹善は わたくしの側にきて臥しました。
益多は追ってきて謹善を捕まえて、ともに交わったのです。
わたくしが、それとなく窺うと益多は気力が充実していよいよ壯んでありました。
またすこし他の男と異なるところがありました。
わたしは五十歳になりますが、ますます欲情が高まり、どうしようもなく悩んでおり ました。
このように自ら女としての情欲を断ち切ることができず、そのまま二人の子供を生み ました。
その後も益多は、わたくしと番息ら三人を相手にしまして精力絶厘で極まるところを 知りません。
わたしは奴隷と通じたのを恥ずかしく思い、益多をいきなり殺してしまいました。
益多の脛を折って中をみますと黄髄があり、しかもそれは充満しておりました。
このことでこの処方の本当の効能を知ったわけです。
陛下が女を御されるのにこの膏を用いられれば、思いのまま髄が満ち溢れることでし ょう。
陛下、これはまことに良い処方であります。臣妾が稽首再拝してここに謹んで申し上 げます。」


おせっかいこの上ない話であるが、驚くべき内容の奉状である。
同時に、薬効を示すのにこれ以上の効能書はないのではと思えるほどの迫力がある。
恐らくこれはフィクションではあるまい。 
というのは、これの出典『古今録験方』 を撰した甄権は、唐の初代皇帝・太宗の寵を蒙った名医であった。
しかも甄権は隋の開皇元年に秘書省正字についた経歴があるだけに、そのとき宮廷内 のこうした記録文書に眼をとおす機会があったらしいのである。
さらに甄権自身についていえば、百三歳の長寿を全うしたが、これは当時としては記 録的な長命であった。
益多散はこの甄権先生が収録している処方である。
このような経緯を考えると、いかにも効能抜群の精力剤に思えてくるから面白い。
いやはや、このような話を紹介するのも、あるいはおせっかいなのかもしれない。

      

(1・10・13)






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