「こころの休憩室」


郷土・筑後地方の謎に迫る(1)

「幻の古地図」と古代の天変地異の話

東洋医学史研 究会
宇田明男



少年時代、父親の故郷(大分市)に行ったとき、海に沈んだ島の話を聞かされたことがあった。それはずっと昔、別府湾にあった瓜生島という大きな島が、地震と津波によって一夜にして海に沈没してしまったという伝説であった。

これがずっと長い間記憶の片隅に残っていたのであるが、後にまとまった伝承記録などであらためて確認する機会があった。(写真は別府湾)


実は二十年ほど以前より水中考古学が日本でも注目されるようになって、海中や水中の伝承遺跡の発掘や科学的調査といったものが各地で実施されるようになった。
過去の地震記録については、中世のイエズス会宣教師の報告書にも地震遭遇の記述があって、有名なルイス・フロイスの「日本史」にもたしかに散見するし、この九州豊後地方の地震についても、その伝聞を記録している。

「府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言われ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があり、…(中略)…或る夜突然何ら風にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。…(中略)…そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およそ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。これらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それにしてもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあらゆるものが海に変わったように思われた。(「1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイスの年報」補遺)とある。


この時、1596年(文禄5年)は西日本を中心に地震が立て続けに発生していた。
・閏7月9日 - 伊予国で大地震、薬師寺の本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊する。
・閏7月12日 - 豊後国で大地震と大津波、瓜生島が海中に没する。(7月9日ともいう)
・7月12日から13日 - 畿内一円で大地震、伏見城や方広寺の大仏殿が倒壊するといった具合である。
なお、この年は文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日)に 慶長に改元した。


水中考古学の研究の分野でも、大分豊後府内地方の瓜生島伝説が注目されだして、それに関連する「豊陽古事談」や「豊府紀聞」、「日本一鑑」といったいくつかの古文書も日の目をみるようになったわけである。
驚いたことにその伝説の瓜生島の古地図もそれらの中に残されていることが分かった。これは本当に驚きであった。
単なる古代の伝説と思っていたものが、島の存在が図上に明示された古地図まで出てきていよいよ現実味を帯びてきたのである。


瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど四百年前の文禄5年(1596)閏7月9日、もしくは7月12日のことといわれる。
瓜生島は府中(大分市)の西北三・三キロのところに あったといい、東西三・九キロ、南北二・三キロ、周囲十二キロの島で あったという。(参照・「豊陽古事談」瓜生島図)
戸数は約千戸、島の中央に北裏町や南本町、沖ノ浜町があり、多くの 船が各地から出入りして活気があったという。島には恵比寿神社や威徳 寺といった大きな寺社もあって、当時、湾の周囲から眺めれば海に浮か ぶ風光明媚な島の風景が広がっていたのではいかと想像される。


この瓜生島が突然の大地震と、それに続く津波によって一夜にして海に没したというわけであるが、その被害者数は八百人前後と記録されている。
島の住人の大多数が犠牲となったわけである。

実は当方のご先祖様もこの大地震の被害をもろに被っていたという予想外の事実があった。
当時当方の先祖は府内(大分市)の東方に位置する鶴崎の地に刀鍛冶として一族が住んでいた。
元は京都の山城国の刀鍛冶(宇田国宗)であったが、室町幕府の内部抗争(観応の擾乱)が勃発した正平5年(1350年)当時、一族郎党共に九州の豊後に移ってきたのだった。
現在も現地に国宗という地名と国宗天満神社だけが残っている。
その後もこの地に刀鍛冶として定住していたが、1596年に発生したこの豊後の巨大地震と瓜生島沈没に遭遇してしまったことになる。
先祖が住んでいた国宗村は大野川の西岸の土地であり、それも別府湾に注ぐ河口に近かったこともありこのとき相当な津波被害を受けたものと思われる。
瓜生島が沈んだのは大地震による津波が原因ともいわれるだけに、このとき別府湾の海岸一体には大波が襲ったことであろう。
この大地震があった後に鍛冶場の一部を大野郡に移転させたりもしたらしい。
同時にこのとき由布岳や対岸の高崎山からの噴火があり、夥しい噴石が別府湾に降り注いだともいう。
対岸の陸地でも地震の被害は甚大で、近くの鶴見岳が崩落して谷を埋めたことも記録されている。

このとき山が二つに裂けたともいい、もしかしたらそれは山頂が2つある由布岳のことかも知れない。
このような火山活動を伴った直下型の大地震と津波とが瓜生島周辺を直撃したということになるのだが、記録によるとこれと同時期に京都や近畿でも大地震が頻発している。


こちらでは余震が数カ月間も続き、豊臣秀吉の居城であった伏見城でも建物が倒壊し六百余人、堺でも六百余人の圧死者が出ているから、西日本全体に及ぶ大災害の時期であったことになる。(写真は由布岳)
当時の有名な話として、朝鮮出兵で石田三成らの讒言で秀吉の怒りを買って謹慎中の加藤清正がこのときいの一番に駆けつけ腰の抜けた秀吉を助け起こして大いに面目を施したということである。


古地図をみると瓜生島のすぐ北に、久米島という島があるが、この島も同じ地震によって前後して壊滅したといわれている。
現在の別府湾の様子からは、想像しがたい巨大な自然災害に襲われたわけである。
ところが瓜生島沈没の経緯は伝聞がいくつも錯綜していて、しかも明確な文献資料が乏しいこともあって、正確な歴史情報とはいえない部分もあるという。
驚くべき天変地異だけに、当然周辺諸国や正史にも詳しい記録があってもいいと思うのであるが、地元にだけにしか瓜生島の伝聞が残されていないというのは不自然というべきかもしれない。
災害直後に為政者による何らかの作為があったかもしれない。
事実、それまでの領主であった大友家は秀吉によって咎められ潰されてしまう。

現在私は福岡県南部の久留米市に居住しているのであるが、二十年程以前地元の郷土史資料を調べていたとき偶然この地域一帯でも一夜で海に沈ん だという謎の陸地伝説があるのに遭遇した。
これも瓜生島同様、突発的な地震によって引き起こされた大災害であったのであるが、これは時代的にはさらに古く千三百年も以前のものであった。
この地震自体はわが国最古の地震記録として「日本書紀」や「豊後國風土記」にも、わずかではあるが記されている。

「是の月に、筑紫國、大きに地動く。地裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。是の時に、百姓の一家、岡の上に有り。地動く夕に當りて、岡崩れて處遷れり。然れども家即に全くして、破壊るること無し。家の人、岡の崩れて家の避れることを知らず。但し會明の後に、知りて大きに驚く。」『日本書紀』天武七年十二月是月条

「飛鳥浄御原宮に御宇しめしし天皇の御世、戊寅の年に、大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」『豊後國風土記』日田郡五馬山条

「日本書紀」の天武七年(六七九)十二月の条によると、この月筑紫の国に大地震があり、幅六ートル、長さ九キロメートルにわたり地割れが発生し、山崩れにより多くの家屋が倒壊したと記述されている。
ここでいう筑紫とは古代九州の筑前・筑後をさすものである。
大地震そのものはわが国の正史に上記のように確かに記述はあるが、実はこのときの地震情報はこれだけではなかった。


当時の筑後の国には十二郡があったといわれている。
ところがこのうちの二郡が、この天変地異ともいうべき大地震によって一夜にして大地が広範囲に崩壊しそのまま海に没してしまったという。
この驚くべき記録がこの地で最古の鷹尾神社の古文書記録にも残されている。

それらの古文書によると、九州最大の筑後川の河口のすぐ南側に、それぞれ河南郡、河北郡の二郡が沖端川を挟むようにして広がっていたといい、それぞれ八百三十町余、四百三十九町余の田地面積があったと伝えられている。
現在の久留米市や大川市、柳川市、三瀦郡、山門郡の福岡県南部一帯がこれに該当する地域ということになるわけで、筑後国の相当な面積を占めていたことになる。

このときの被害状況は断片的に史料に記されているのであるが、記録によると四十日以上にも及ぶ長雨によって地盤がゆるんだところに突然直下型の大地震が発生したという。
これによって沿岸部の陸地が広範囲に陥没し、そこへ有明海の海水が大量に流れ込んだというものである。
結果的には、これは大地震に伴う沿岸部の大規模な津波災害であったといえるであろう。

この河北郡・河南郡の沈没については「日本書紀」以降の正史には一切触れられてはいない。
だが地元に残されているいくつかの古文書には、二郡を含む広大な陸地が海没した大事件として地震災害の実体が記録されていたわけである。
有明海に面した地域は、いわゆる海岸部の干潟地に土砂が長年堆積してできた軟弱な平野部(アシ原)であったということがよく知られている。
海に近い沿岸部ということで江戸時代以降に治水とともに干拓された土地も広範囲に広がっている。
これらの土地では地面を掘ると浅い部分にいきなり砂の堆積層があって、やがて粘土や水分を多く含んだ泥土層が出てくるところが少なくない。
沿岸部での建設工事では地盤強化のための杭打ちがよく行われるのであるが、地面の表層部を突き抜けた杭は途中からずぶずぶと一気に地下の泥土に沈み込んでいく。
いかに地盤が軟弱であるかが分るはずである。
それだけ地震に伴う液状化現象や地盤沈下が発生し易い地質ということになる。


大正4年当時筑後地方で出版された渡邊村男著「邪馬台國探見記」(柳河新報社刊)という稀覯本を読んでいたところ、冒頭部分に折り込まれていた筑後の地図上にこの消滅した元の河北郡・河南郡の位置が表示されているのを偶然発見した。
地図上にはっきりと明示されているわけだから、著者の渡邊村男はこの伝承のことも関連する記録にも直接遭遇していたはずである。
地図上のポイントもしっかりと特定しているわけであるから、それだけにより確かな情報として捕らえていたと思われる。
ところが不思議なことに肝心の河北郡・河南郡の歴史や由来について本書中では一切書かれていなかった。
探見記として真っ先にでも取り上げてもいい特筆すべき当地の重大な歴史的事件でありながら、それこそ一行もこの事件に関連する記述はなかった。
著者の渡邊村男は当地を歴史探索していく過程で河北郡・河南郡の沈没事件に遭遇したとき、おそらくは当地の関連史料にもあたってそれらに目を通したであろうに、まったく触れないままで見過ごしてしまっているということが何とも不可解で仕方がない。
この出版物について調べてみたところ、地元の古代史を扱った「邪馬台國探見記」自体は近隣の久留米市などの公立図書館にもまったく収蔵されてはいなかった。
私が目にした書籍はまさに稀少本ということになる。


おそらくは本書の編集過程で検閲が入るなどして、発禁処分に近い形でこの二郡沈没の記述は削除せざるを得ない事態に遭遇したのではないだろうか。
どうにかこの河北郡・河南郡の名称と位置とを地図上に記載するのがやっとのことだったということだろう。
これにはなんとも言い難い当時の抑圧された時代背景がそれとなく覗えるものであった。
まさにこれは秘すべき歴史であり、タブーともいうべき歴史探求の領域ということになる。(「耶馬臺國探見記」・耶馬臺國並びに二十一國分布推定圖より転載)

そういうこともあって、いまではこの伝説の存在を地元でも知る人は皆無に等しいわけで、どうにかその痕跡が浮かび上がってきたのは郷土史関係の史料が発掘整理されてきたのはここ数十年の間ではないかと思う。
古代の大地震直後に、確かにこの二郡は海中に沈没して一旦は消滅してしまっていたのである。
その後の長い干拓事業の継続によって次第に海は埋め立てられ、やがてかっての河北、河南の上にも再度新たな干拓地が形成されていったということになる。
そのことをこの古地図は示している。
このことがどのように不都合な事態であったのかは分らない。


これら瓜生島と筑後二郡の海没事件は奇しくも、地質学でいう「別府島原(天草)地溝帯」という特異な帯状に伸びた断層上で発生したものである。
このことは、最近の雲仙・普賢岳の災害状況やその後の久重系・硫黄山の火山活動と比較しても、この地溝帯の存在は今後も無視できないものがあるといえるであろう。
九州でも大地震やそれに伴う巨大津波が発生する可能性は非常に高いのである。
防災上の観点からいけば、こうした考古学、歴史的伝承記録に学ぶべき部分は少なくないであろう。


実際に近年の筑後地方の発掘調査の過程で古代の地震による噴砂現象や液状化現象の痕跡が確認され、「日本書紀」に記述されている筑紫の大地震の実態が明らかになってきている。(新聞資料参照)

             (6・2・17)






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