「こころの休憩室」


郷土・筑後地方の謎に迫る(2)

魏志倭人伝と古人骨の話

東洋医学史研究会
宇田明男



北部九州は古代史の宝庫である。そうした宝庫があるにもかかわらず、それらが忘れ去られつつある。
埋蔵文化保護法が出来る以前は、地方では古代の埋蔵物の破壊は日常茶飯事であった。
何かが出土しても工事優先で埋め戻されたり、取り除かれてしまう状態であった。古物屋に由緒ある神社の古文書が売り払われていたという話も聞いた。
子供心に、教科書に載っているような土器や黒曜石石器が工事現場でいっぱい掘り出されているのに、どうして大人達は無関心なのだろうと不思議に思ったものである。


いまは古代史に関心を寄せる人も増えて、箱物の歴史博物館など連日大入り満員の盛況のようである。
しかしあらたまって博物館などに行かなくても、足元の郷土には驚くべき遺物がひっそりと埃をかぶって残されていることを知る人は意外と少ない。

数少ない氏子で守られてきた小さな神社などには、そうした遺物がある。
大抵それらに関する文献資料はすでに失われていて、一体それが何なのか、その遺物や祭事自体ににどのような意味があるのかについては当の氏子さんらも知らない場合さえある。
タイムカプセルから過去の遺物を取り出して首を傾げてしまうような、おかしな情景そのものである。


北部九州の渡来系弥生人と中国山東省で発掘された前漢時代の墳墓より出土の古人骨 とが酷似しているという日中共同の調査結果が、今年(1994 年)はじめに発表された。
現代の科学的人類学的分析で、古人骨に高い類似性が指摘された。
前漢は日本の弥生時代前半に当たり、大陸から古代人が農耕や金属器文化などと共に 次々と渡来していた可能性が出てきた。
従来の朝鮮半島南部経由の古代人渡来ルートとは異なる新説ということであるが、再 び鍼医・徐福の渡来伝説や日本人の起源が新たな注目を浴びることになった。
こうした考古学的調査によって、真実が解明されることには歴史的ロマンをかき立て られるわけだが、ここはひとつこれまでの欺漫性を払拭すべくこの古代史の謎に挑戦し てみようではないかという気分になった。


それも、今回は考古学者が最も避けている部分について触れてみようと思う。
二十年も前に古代の日本について書かれているという「魏志」倭人伝を読んだとき、 面白いことに気づいた。

それは倭人伝にある倭人の習俗について記されている、次のような部分である。
「男子は大小と無く、皆鯨面・文身(顔と体に入れ墨)す。古より以来、其の使者中 国に詣でるや、皆自ら大夫と称す。夏后少康(夏王朝第六代皇帝)の子、会稽に封ぜら れ、断髪文身以て鮫龍の害を避ける。いま倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文 身し亦以て大魚、水禽を厭う。後にやや以て飾りと為す。」(「魏志倭人伝」三世紀成 立)


さて、文中の「大夫」とは一体どういう者をいうのであろうか。
確かに周の封建制度 では天子や諸候に仕えた者を卿、大夫、仕の三身分に分けていたから、それに該当する身分ということになる。

しかも皇帝や諸候と血縁関係で結ばれていたということをも意味する身分でもあるので、ここで使われていても文意の流れでは不自然ではない。
そのまま受け取れば、相当以前から倭の国(古代日本)は周王朝の制度や文化の影響 下にあったということになる。
これが事実なら実に面白い展開になるわけである。


ただこの部分をことさら注目すると、別の展開が出てくる。同時代に編纂された「魏略」の逸文(太宰府に残されている「翰 苑」など)と照合すると、「大夫」とはまったく違った表現がされていることが知られている。

日本では古代の文献史料として「魏志倭人伝」は格別に有名であるが、これとて編纂されるときには当時の原本史料に基づいて編纂されたはずである。
ところが、「魏志倭人伝」も「魏略」も同じ原本史料に基づいていたはずなのに、「大夫」ではなく、「魏略」の逸文、「翰 苑」には「その旧語(伝説)を聞くに、自ら太伯の後と謂う」という記述になってい る。
「魏略」は、はやくに散逸してしまい、現存してはいないが、7世紀ごろまで史書編纂時には閲覧されていたことは確かだろう。
大夫と太伯とでは大いに意味が異なるだけに、どうやら後世の史書編纂時もこれには大い に迷ったらしく、その引用の仕方にそれぞれ微妙な違いが現れてきていることが覗える。


 1)「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す」「後漢書倭伝」(五世紀成立)

 2)「漢の武帝の時、使いを遣わして入朝し、自ら大夫と称す」「隋書倭国伝」(七世紀成立)

 3)「男子は大小と無く、ことごとく鯨面文身す。自ら太伯と謂う。又言う、上古、使い 中国に詣でるや、皆大夫と称す。」「晋書四夷伝」(七世紀成立)

 4)「倭者は自ら太伯の後と云う。俗、皆文身す。」「梁書諸夷伝」(七世紀成立)

このように歴代の歴史書は、「魏志倭人伝」や「魏略」を根本史料として忠実に踏襲 しているわけだが、大夫と太伯の扱い方からみても両者がどのような意味を持つか興味 深いものがある。


実は後で分かったことであるが、この部分はその後の日本の皇国史観と相まって、為 政者や知識人の間でタブー視された太伯伝説とへとつながるものである。

中国の歴史家金仁山(1232~1303)が「通鑑前編」に記述した「日本いう、 呉の太伯の後なりと。けだし呉亡んでその支庶(傍流・後裔)、海に入って倭となる」 という観点がそれを如実に物語っている。

この古代日本の起源につながる中国側の見解に、南北朝時代に元に留学した禅僧中巖 円月(1300~1375)は注目した。
その後彼は1341年に「日本書」なる書物を著したが、このなかで「日本書紀」で いう天孫降臨を大陸から呉の太伯の子孫が九州に渡来してきたものとする考えをとなえ たらしい。


しかしこの説は当然時の為政者に受け入れられなかった。 つまり当時としては「大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を 伝え給う。我国のみ此事あり。異朝には其たぐいなし。此故に神国と云也」(北畠親房 著「神皇正統記」)、という考えが支配的であったわけである。


さてここで問題となる太伯とは一体何であろうか。これには二つの意味がある。

 1) 周の太王の長子に太伯という人物がおり、呉の地(揚子江下流会稽山近辺)にて 文身鯨面したとされる。呉の始祖の名である。
「史記」(周本紀・呉太伯世家)や漢書(霍光伝)にその伝がある。
 2) 本来太伯とは水神祭祀者そのものを指す。これには後漢の許慎著「説文解字」の 注によると「馮夷、太伯は河伯なり」とある。 河伯は水神祭祀に関係した河童である。
「馮夷は人面にして、兩龍に乗ず」(山海経・海内北経)とあるように、水神系譜の 源となる重要な意味を持っている。
あらためて大夫にこれらの太伯の意味を重ねると、倭人伝自体が非常に分かり易い内 容になってくる。
しかもこれによって、倭人伝の水神祭祀に関する記述部分は明確な論理性を示してい ることが分かる。


この文脈からみても河伯との関係が深い夏后氏とつながるし、以下の水神祭祀に伴っ た俗としての鯨面文身の解説が意味をなすわけである。
夏后氏、つまり古代夏王朝の開祖である禹は水神河伯の助けによって黄河の大洪水を 治めたという有名な伝説を持つわけだから、これは水神祭祀者以外の何者でもあるまい。

そして最初の太伯の解釈を踏まえて考えると、夏后少康(夏の中興第六代の英王)の 子が広めたとされる会稽地方の水人・海人(漁労をする民)の水神祭祀としての鯨面文 身は、呉の太伯に受け継がれ、さらに倭国まで伝わっているということになる。
二の解釈からみても夏后氏以来の水神祭祀の伝播の経緯が明示されることになり、文 意にはなんら矛盾はないことになる。


つまりここは習俗としての水神祭祀を強調し、さらにそれをひとつの主題として構成 された文脈としてみていくと、大夫より太伯の方がまとまりがいいように思えるわけで ある。
倭人伝の記述はこのように海洋民族あるいは水人の民の文化圏の広がりを示すだけで なく、太伯伝説や徐福伝説の信憑性につながるものだといえる。

中国大陸から九州への水人・海人の渡来ということは、以前紹介した河童(土木職能集団)の渡来 伝説にもそのまま重ねることのできるものである。

筑後地方には、古代の渡来海人族の姿そのままの神像が残されている。海神の幡を掲げ、稲束や武具を携えた勇壮な姿である。
徐福の紹介でも、大陸沿岸の海洋民族との関連性や水神祭祀についても書いた が、山東省からの直接渡来ということでは、今回の古人骨の分析は大いに注目すべきも のと思う。

             (6・2・17)






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