「こころの休憩室」


郷土・筑後地方の謎に迫る(6)

騎馬民族・河童・整骨医術伝承の話

東洋医学史研究会
宇田明男


河童は古来より不思議な発想の世界に誘ってくれる妖怪であった。
河童伝説の存在は古代史はもとより地方文化史や民族学の分野でも、古代水陸信仰の 貴重な伝承として注目されている。
しかも水神の眷属とされる河童は水中だけの妖怪ではなく、川(海)に半年、山に半 年の水陸両方を住み分けているという変遷移動する伝承もあるからその実体は複雑怪奇である。(写真は筑後地方の河童祭り)


そこで今回は河童の実態を解明するために、古代史関連の愉快な話をしたいと思う。
ここで改まって言うまでもなく、古代史と医学史には密接な関連性がある。
日本においては、西洋の医学との交流よりは明らかに中国を中心に東洋系の医学との関係が、歴 史的にははるかに長かったはずである。
当初、わが国における東洋医学の萌芽というものを、鍼医徐福の渡来を一つの起点と して捉えてみたのも真意はそこのところにあった。
しかし医学史に関連付けてみられるれる古代史の興味ある事跡というものは、徐福渡来だけではない。
戦後間もない昭和二十三年(一九四八)に江上波夫東大名誉教授によって「騎馬民族 征服説」なるものが発表された。
それ以来その学説のスケールの大きさと発想のユニークさ、さらには現在もなお論戦 が続いているということを聞けば、古代史ファンでなくても少しは関心が持てようと言 うものである。


実はこれもまた医学史の視点から見ると実に面白い学説の一つなのである。
「騎馬民族征服説」というのは、東北アジアの夫余系騎馬民族が朝鮮半島を南下し辰 王国となり、さらに北九州に渡って建国、その後機内に移動して大和朝廷を建てたとい うものである。
もちろんこの学説には賛否両論がある。そこらの展開が非常に興味深いのである。 たとえば、その反論としてよく出てくるのが、まず
1)天皇家の祭祀というものは農耕民族の儀礼であって、騎馬民族特有の動物の犠牲を伝 統的に欠いているではないか。
2)騎馬民族の去勢技術が古代日本に伝播していないのは本質的に矛盾するのではない か。 
3)大和ことばには食肉や内蔵を言い表す語彙が非常に少ないのは、騎馬民族の狩猟性よ り農耕性が強いことの一つの特徴ではないか。等々--。
ここから先はそれぞれ古代史研究家、考古学者の専門領域であって、今後も熱い論戦が続け られるというわけである。(写真は筑後地方の河童神像)


「騎馬民族征服説」を古代九州の歴史的背景からどう見るかであるが、はっきり言って騎馬民族はやは り古代日本に渡来していたのではないかと考えている。
しかしそれと同時にいえることは、本来日本の国土は森林や湿地が多く、広大な平原で最大に機能する騎馬は渡 来直後においてはそれほど戦闘力としての威力を発揮できなかったのではないか。
平野部が少なく、山岳地域や河川で寸断される地形では、馬が駆け回るには障害物が多すぎる。
映画「七人の侍」ではないが、侵略される側は地の利を生かした城塞と弓矢で防御で きたのではないか。
だから騎馬民族はその独自の祭祀性を日本の風土に馴染ませ、さらに最後まで実質的 主導権を維持することができずに終わったのではないかとも考えるわけである。


では何故、騎馬民族が渡来していたという考えに立つかといえば、『医学史からみた 鍼医・徐福』でも触れたが、古代日本には早くに大陸系の整骨医術が伝播していた形跡がある からである。
東洋独自の伝統的整骨術というものは、古くは治水土木技術や築城技術に付随して発達した特殊な医療技術(術式)としての整骨術と、戦闘武術として発達した拳法・柔術に付随派生した救急の医療技術という二つの異なった源流があるのではないかと考えているのだが、この特殊な医療の伝播の背景には騎馬民族の影響があるように思う。(写真は筑後地方の神社に奉納されている勇壮な海人一族像)

ここでわざわざ整骨術の源流を二つに区分するのは、それぞれが類似した伝統性を保持していながら明らかに歴史的に違った派生と伝播の違いが考えられるからである。
わが国における武術系の整復術は、その体系が戦国時代末期に陳元鬢(一五九五~一六七一)が明より帰化して、中国 正骨術と中国武術とを日本人に直接伝えたことに始まったという歴史的事実がある。
さらに後世、これに一八世紀に完成した清代の『医宗金鑑』の整骨技術やその後の西洋医学の伝播が影響を与 えてきている。
もう一方の治水土木技術や築城技術に付随して伝播した整骨医術というのは一体何かということにな るが、これこそあの河童渡来伝承に付随する整骨術の実体なのである。
よく知られている河童伝説そのものは日本固有のものではなく、古代中国大陸からの渡来した水神系の伝承遺物の一つである。
いわゆる九州地方のの河童伝説によると、河童一族というのは遠く大陸よりはるばる渡来してきた集団であり、それも内陸部のタクラマカン砂漠・タムリ盆地から黄河を下っ て海に至り、さらに東シナ海を通って九州に上陸渡来したというtものである。


つまり中国の中原を横断して海を渡り、遥か彼方の日本の地までやって来たといういうことになる。
古代の民族移動史や技術伝播のルートとしてみても、興味深いところである。
古代における集団的民族移動は特別なことではなくて、他民族の侵略から逃れたり急激な気候変動による食糧難などの理由でたびたび大移動が実施されたものである。
そうした移動の過程で個々の文化の伝播と融合が繰り返されていった。


河童の原型そのものは中国古代の神話にあるのだが、その古い起源についてもここでは考えてみたいと思う。
古代中国で創られた「沈」という漢字は、もともと水神への供物として牛を水に沈める形からできているというが、その犠牲にみる祭祀性に中東のパール神の影響があったのではないかと思う。
また「馮夷(河伯・河童)は人面にして、兩龍に乗ず」(山海経・海内北経)と古典籍に記述があるように、古代中国では水神信仰は治水技術、それも土木工事ときわめて深い関係があったことが古代の神話として残されている。
古代中国において黄河大洪水を治めた禹が禅譲されて夏王朝の王につけたのは、この「河伯」の大きな助けがあったからである。
河伯とは個人ではなくて、一族といった集団の名称であり神格でもある。
河童は古代中国の神話に出てくる河伯そのものに近い存在である。その河伯集団が古代の大洪水を治水するのに大きな働きをしたということは、彼らが治水工事のエキスパート集団であったことがわかる。
何故に、そのようなエキスパート集団が古代に存在していたのか不思議に思えるのではないだろうか。


同じように日本でも、古代の治水築城工事に河童集団が関わったとする伝説が各地に残されているし、実際に水神への供物として人身御供が行われた。
困難を伴う治水工事には、水神祭祀として犠牲がたびたび必要とされたのだ。
そうした祭祀性をみていくと、やはり大陸からの河童そのものの伝播が当然みえてくるはずである。

河童に代表される水神や海神などの水陸信仰自体は、仏教伝来よりずっと以前に沿岸部の海洋民族同士の交流を通して日本の風土にもしっかりと定着していた。
河童伝説に象徴されるように、夥しい文化的伝承遺物をみる限り水上生活を通して水神信仰が古代九州にも広まっていたことは確かである。
しかしながら、その後の仏教伝来によってそれまでの伝統的な土着の古代神は次々と弾圧されるようになったのであるが、水神信仰もその例外ではなかった。
結局、水神の河童も終いには異形の醜悪な姿にかえられ、水中の妖怪に成り下がってしまった。
それは河童神の形にも大きな変化を及ぼすこととなり、外見的には背中に水生動物の亀同様の甲羅を背負わされ、頭には皿まで被せられた姿となった。


何故にそうした変遷が分かるかというと、河童神の古い遺物が残されている筑後地方の古い神社を訪ねてみると、その社殿の梁を支える河童神には甲羅も皿もない太古の原型を見ることが出来るからだ。
その姿はまさに逞しい力士像である。筋肉隆々の裸体には、河童特有のあの甲羅はないのだ。
そうした伝承河童の裸の姿は九州の風土にしっかりとなじんでいる。いまでも河童は身近な存在であり、素朴な親しみを感じる存在なのだ。
河童は中世以降、異形の妖怪といいながらも、ときたま人前に姿を現すようになる。
これが後世の河童伝説の登場である。河童は子供のようにいたずらや相撲が好きで人間に遭遇するとすぐ相撲で挑み掛かってくる。
河童は小柄だが腕力が強く、何故か相撲という格闘技が得意で大好きである。
しかも河童は腕の関節が脱臼しても、腕が切断されても容易に元にもどせる卓越した治療技術を持っ ている。
関節の損傷、骨折の接骨・整復術というように、その治療技術の範疇が外科的でいかにも恣意的、象 徴的でさえある。この接骨・整骨術と相撲の関係、いったいそれは何を意味しているのだろうか?
河童の万能薬にしても、ほねつぎ(接骨術)に関わる薬が必ず伝説には登場してくる。
不思議なことに、彼らは古来より接骨、骨傷、打撲治療の特殊な治療技術をもつ整骨名人なのである。何故であろうか?
しかも河童伝説には治水土木技術や築城技術に関わったとする伝承がすこぶる多い。どう考えても、河童は昔話に出てくるただの水辺の妖怪とはいえないのである。

折口 信夫の「河童の話」に、次のような一節がある。
「河童の場合は、接骨の法を授けたと言ふ形が、多様に岐れたらしい。金創の妙薬に、河童の伝法を説くものが多いが、古くはやはり、手脚の骨つぎを説いたものらしい。馬術の家には、落馬したものゝ為の秘法の手術が行はれた。その本縁を説明する唱言も、共に伝つた。恐らく、相撲の家にあつたものを移して、馬との関係を深めたものと思はれる。河童に結びついた因縁は、後廻しにする。人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ為にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件となつてゐた時代があつたに違ひない。」
ここにも河童と彼らの特殊な接骨・整骨術との関連性が見て取れる。
河童伝説を調べていくと、河童集団は定住することなく広範囲に移動しながら築城・治水・架橋に対して集団で活動していたということになっている。
河童と土木工事とは特別な関係にあるわけだ。

そうした土木工事では力仕事ということで、危険な作業に伴う筋肉や関節の損傷、骨折怪我が日常的に頻発したはずである。
接骨・整骨術はそこから派生してきているわけだ。
土木技術という職能に付随した特殊な治療技術そのものは、経験的に蓄積されながら部族内で共有されていったと考えられるわけである。だから河童は接骨の名人なのだ。
この特殊性を考えると、いよいよ渡来した河童一族なるものがある種の土木建築技術に特化した職能集団であったことが判明してくる。
しかしここで、もう一つの謎というか疑問点が浮上してくる。 それは河童一族とまったく同様に、大陸の北方内陸部にいた騎馬民族も独自の接骨・骨傷治療(整骨術)と格闘技(モンゴル相撲)を古くから持っていた。これまた、どういうことであろうか?
ここにもあらためて解明しなければならないところである。


古代において河童は水神系の眷属としてその祭祀に深く関わっていたが、それとは別に内陸部の騎馬民族との関連性もそれとなく窺える部分がある。
馬と河童は、民族学的伝承分野では相互に関連性が濃厚である。
乗馬ということでいうなら騎馬民族は巧みなその乗馬技術を誇ったわけであるが、それこ そ落馬による怪我や骨折脱臼は日常茶飯事であったことは容易に想像できることである。
実際に、現在のモンゴルを中心にして広範な領域で古来よりこの伝統的整骨医術が最も発達したことが知られている。(「モンゴル医学史」参照)
とにかくモンゴルの伝統医学といえば、まず整骨医術が筆頭に上げられる。しかもこの地には格闘技として、有名なモンゴル相撲がある。
しかしながら中国の北方に位置する遊牧民族(匈奴)のそうした骨折や関節周囲の軟部組織の 損傷に対する治療法そのものが、中国王朝内でも実際に医療技術として認められだしたのは随分と後世 のことであった。
それだけに、大陸からの医術の伝播がそうした北方地域の接骨・整骨術が通常のルートで古代日本に伝わったとするには多少無理がある。
たとえば清代の西太后がギックリ腰になったとき、当時もいろいろな治療法が試みられたが 効果がなく、はじめてこの北方より伝わった整骨医術の徒手療法が施されて回復したと いう話がそれを如実に物語っている。
当時でさえ北方の整骨術は主流の治療技術として中原では認識はされていなかった。
もちろん中国の整骨術といえば、まず少林寺に代表される武術系の骨傷治療技術が発達 していたことを考慮すればなおさらである。
古代中国でさえもも、伝統的医療技術としての整骨術の派生の様相をみてもこのように明確に異なるわけである。


そうなると、河童一族と騎馬民族との間には古代において何らかの関連性があったのではないかという発想が出てこよう。
たしかにそのままでは、整骨術の派生を考える上では類似した特殊な背景を持っていることは頷けるがその先がはっきりしてこない。
彼ら河童一族が、北方域の騎馬民族と同族でなければ一体何者なのか、いよいよ謎は謎を呼ぶということになろう。
私は三十年も以前から、河童一族というのは神殿建設を専門とする古代の特殊な土木技術職能集 団のことではないかと考えてきた。
中央アジアのカッパドキア辺りからやって来たのが「河童一族」というのが従来からの持論である。
実際に熊本県八代 地方には河童はペルシャからやって来たという伝承がある。
九州出身の作家火野葦平も生前この説に賛同し、大いに喧伝していた。
それも大規模な巨石を使った神殿、城壁、霊廟、墳墓などを専門的に構築する土木技術者が定住することなく集団で移動していたのではないか。
古代では、そうした神殿、城壁の構築が盛んであり、特異な職能集団が個別に存在していたことが知られていた。


神殿建設が完成すると、彼らは神殿を守るライオン像や獅子像、狛犬を設置して次の仕事を求めて移動していった。
その結果、石材を使った各地の神殿の構造や様式においても、多くの類似性を残していったと考えてもおかしくはないわけである。

西洋のフリーメーソン(石工の職人集団)にみるように、古代よりこうした神殿建築技術者には国境を自由に通行できる特殊ともいえる通行権が与えられていた。
前述したように、大陸内陸部のタクラマカン砂漠・タムリ盆地から黄河を下って海に至り、さらに東シナ海を通って九州に上陸渡来したという伝承が事実であるとすれば、河童集団はその移動中に騎馬民族集団と接触し直接文化的交流を持った可能性が当然出てくる。
河童集団は大陸内陸北部に一部残る者たちと、さらに移動を続けた集団とに分かれていった可能性もある。
そこではもちろん整骨術や格闘技・相撲が民族間に同じように伝播していった可能性も出てくるであろう。
単なる偶然ではなく、彼らに必要な技術が文化的に共通していた格闘技や特殊な治療技術の分野ということで、河童集団と騎馬民族との間で深い情報交換がなされたとするならば、これまで気になっていた謎も一気に氷解してくる。
しかも伝説の九州渡来コースが示すように、太古において河童一族と騎馬民族とは一時期中国内陸北部で接触があったことの確証にも繋がる。
そのような経緯を経て、彼ら河童技術者集団がエジプトやオリエントから中央アジアを経由して、はるばる日本まで渡来してきた などと考えるだけでもロマンがある話である。
河童が大好きな胡瓜も、もともとはエジプトなど中東地域の作物であった。これなど明らかに古代シルクロード経由の伝播が考えられるものである。


ここに紹介している右上の写真は、北部九州の筑後地方にある神社の屋根の梁を両手で支える伝統的な古代の河童神像の姿である。
頭の皿や背中の甲羅などなく、筋骨隆々としてまるで力士像そのものである。
右の写真は中国湖南省の省都、長沙市で1972年に馬王堆漢墓から出土した2100年前の布には古代神話の世界が色彩豊かに描かれている。


そこには力士のように両手で力強く大地を支える水神の姿が描かれている。足元には巨大魚(兩龍)がいて、その上に乗っている構図である。
この構図はまさしく「馮夷(河伯・河童)は人面にして、兩龍に乗ず」と表現されている古代河童神の姿そのものである。
実に明白である。 古代の遺物としてみたとき、古代中国の構図と筑後の河童神像は奇しくも両者共その姿、ポーズにおいて驚くべき類似性を示しているではないか。


これこそ二千年以上以前に、大陸から河童神の原型がそのまま古代日本の地に確実に 伝わっていた証左でもある。
少なくとも、河童一族は騎馬民族よりも遥かに先に古代日本に渡来してきているということである。
こうみてくると、古代北部九州には接骨・整骨術渡来も含めて興味深い文化人類学的展開があるということになる。
(筑後地方の神社の力士像) 





(4・1・12)







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