「こころの休憩室」


侍医って知っていますか?

侍医とは古くは典薬寮に属し、天皇の脈を診、進薬を掌った医師 をいう。
昭和天皇の侍医団の真剣な対応は我々の記憶に新しいが、常にそ の時代の最高権威の医師と医療技術が投入される体制をも意味する ものである。

歴史的にみても大名や身分の高い人は、このような掛かり付けと いうより専属のお抱え医師団を持っていたわけである。
侍医団は日頃から、毎日欠かすことなく朝と晩の二回、おぬる (体温)とお脈を頂戴して拝診し、かつ、 「おとう (大便)」と 「おじゃじゃ(尿)」を拝見しつつ、さらにまた週一回は念入りな 「定期拝診」が実施されるといった万全の体制をとって日夜その重 い任にあたっていたのである。

ここには歴史と伝統とに裏打ちされた格式そのものがあるだけに、 侍医というものはそれ相応の身分が保証され権威もそれなりに高か った。
侍医ということでまず思い出すのは曲直瀬道三(一五〇七~一五 九四)であり、その一門である。

桃山時代より江戸時代にかけて宮廷と幕府に仕えた医家の名門で ある。
初代道三は天文十五年(一五四五)に将軍足利義輝の病を治療し て効があり侍医となったが、さらには豊臣家、徳川家、細川家、三 好修理、松永弾正、毛利元就など戦国の錚々たる武将に重んぜられ た。

それだけでなく医学教育や医書の著述でも大きな功績があり、我 が国の実証医学の先駆けとなった名医であった。
曲直瀬玄朔(二代目道三)も名医の誉れ高く、正親町天皇や式部 郷親王、また関白秀次の治療でも効がありその侍医となった。
文禄四年(一五九五)秀次は暴虐の振る舞いで秀吉によって自害 を命ぜられたが、このとき玄朔も侍医として側に仕えていたという ことで気の毒にも陸奥の国へ流されてしまった。

慶長三年(一五九八)後陽成天皇が病に倒れられ、名のある医家 達が治療にあたるが効能なく、ついに玄朔の罪を免じて京へ招くこ とになった。

玄朔が薬を献じたところたちどころに著効があり、天皇は短時日 で治癒された。このとき玄朔は天皇に灸治療を勧めたが、その先例 がなくついに許可されなかったという経緯があった。
徳川家康が医術・本草学に詳しかったことは、当時のいくつかの 記録からも窺えるし、三河にいたころは減慶、長閑という明人医師 を召し抱えていた。

天下平定後は久志本左京や半井、曲直瀬、野間、竹田といった一 流の京の医師を揃えていたし、他に板坂卜斉、片山宗哲などの名だ たる名医が侍医として仕えていた。
家康の場合はただ名医を側近く召し抱えるだけでなく、これらの 医師に対して常に新しい医学知識の習得に努めさせるということを した。

それは長崎よりいち早く中国や朝鮮の医学書を取り寄せ、自ら研 究するといった家康の積極的な対応にみることができる。
たとえば朝鮮の『東医宝鑑』を入手すると直ちに、侍医らに読ま せていることでも分かる。

家康は最良の医療が受けられることを念頭に、有能な侍医(奥医 師)の体制を調えようとして高禄で召し抱え、しかも子々孫々まで 医家として仕えることを命じた。
ところが、当然といえば当然のことであるがこの医家の世襲、家 禄を継ぐということの弊害が次第に現れてきたのである。

要するにいかに医家の名門とて、そううまく名医がたて続けに出 るわけがない。なかには医者に不向きな者や、見るからに愚鈍の子 弟が目立ちはじめたのである。
事は将軍家の健康管理、医療体制の根幹に関わってくる重大事で ある。

こうなると幕府は家柄に関係なく、腕のよい藩医や町医からも一 代限りという条件はあったものの次々に奥医師に抜擢するといった 思い切った対応策をこうじた。
奥医師といわれる者は二十人前後おり、六人づつ交代で江戸城に 出仕し、同時に外科、眼科、鍼医が二人づつ三日ごとに出仕すると いう決まりであった。
毎朝この八人の医師が総掛かりで将軍を診察(脈診)するのであ るが、実におかしなものであった。

通常この診察は午前中御髪番が結髪をしている最中にお脈伺いと いうことで始まるのであるが、医師が二人一組になって左右より将 軍の手を取って片方ずつ脈を拝見する。

脈診中は医師は決して顔を上げることはできず、頭を低く垂れた ままへんてこりんな姿勢でおそるおそる行うのである。
このようにして四組の医師の代わる代わる脈診するのが徳川家の 伝統的診察法であったが、その実どれほど機能したか疑わしい。

これら奥医師は大奥の御台所や側室の定期健康診断も受け持って いたし、二の丸、西の丸にいる世継ぎらを診察してまわった。
奥医師の頂点に立つのが典薬頭であるが、若年寄の支配下にあっ て幕府の医療行政を統括した。これを半井・今大路両家が世襲した のである。

この下にいる奥医師は二百俵高、御番料二百俵ぐらいの家禄で大 した待遇ではなかったが、法眼・法印といった権威が与えられてい たし、アルバイト料が莫大であった。
慶安三年(一六五〇)正月、奥医師狩野玄竹は幕府の命をうけ、 老中堀田正盛の急病を治療したが、これを首尾よく全治させて幕府 より褒美として千両賜った。

更に堀田家からも千両届けられ、つごう二千両が薬礼となった。 これが先例となってこれ以降奥医師の薬礼として千両箱がやたら 飛び交うこととなった。

当時の1両の価値はというと、一両あれば普通の一家がゆったりと生活できたということから考えればいかに莫大な金子であるかが分かるはずである。
このように侍医の待遇がよいのは、その 責任の重大さと無縁ではなかった。

かって朝鮮の李朝王朝においては、王の治療に失敗して、その医 師団は処刑されたことがあったという。まさに命懸けの職責であった。




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